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 雨の中、その足音を聞くことができたのは奇跡に近かった。辛うじて残っていただけの意識が、その音で急に覚醒する。そして知った、もう持つまい。だからこそ彼の奏でる音を聞くことができるのだろう、もしかすると、とうに自分は。それに臨む覚悟であったのだ、恐怖や後悔はなかった。感慨にふけるばかりであった。こうなると、彼にも出会えるものなのか。以前、もうずっと昔のことに思えるような遠い日に耳にしたそれは、生い茂る青草の上で踊るかのように軽やかで、とても楽しげなものであったような気がするのだが、今は湿った暗い音のように思う。霧のように細かな雨粒が先程からずっとこの身体をも濡らしているのだ、彼の足音が重くとも仕方はなかった。こんなところへ寄って来ては、血や泥の混じった汚い水があの脚へ跳ねてしまう。いけませぬと遠くから声をかけてやれればよかったが、どうにも身体は動かない。
 近付く彼は、記憶の中の華やかな容姿と寸分違わなかった。あの後すぐに亡くなったようなのだから、当然ではある。まぶたを閉じれば、最早閉じているのか開けているのか分からない程に暗い視界ではあったが、あのすらりとした影が映し出された。満天の星空を映したように鮮やかな金糸が揺れている。戦勝を祝う宴の中で一人佇んでいた彼に声をかけ、振り返ったあの瞬間だ。手足の爪の先まで狂いなく繋がった身体の線が、伸びやかな四肢を形作っていた。浮かぶのは笑顔ばかりだ。そういえば、その眸は何色であったのか。弧を描いて閉じているせいで色までは窺えない。
 どうしようもない落胆があった。あの姿をまさか忘れられるはずもないと思っていたのだ。一目で誰かにそれ程までに引かれるなど、自分でも信じられないことではあったが。一瞬の出会いであれど、その印象は深傷のように胸に刻まれたはずであった。それでも人の記憶というものは、確実に時間によって蝕まれるものらしい。残酷な話だ、と独り言ちたつもりであったが、もう血の混じった嫌な咳が少し零れるだけであった。
 曹操に下ることになったとき、陥れたのは間違いなく彼だと思っていた。それを早世したのだと言われた、あの喪失感は一瞬たりとて忘れられたことがない。戦場には似つかわしくない態度や華麗な衣装など、最初は彼を疑うばかりだった。思い返せば、失礼極まりないことを言ってしまったのだ、その非礼を謝したのであったか、それを許してもらえたのであったか。それすらあやふやになっていた。疑念の目に睨まれようともろともせず、流れるように策を口にする姿が浮かぶ。それが少しいじわるそうな笑みであったのは、彼の仕事を思えば仕方がない。最後に優しくこの名を呼んで、頼りにしているよと言ってくれたはずなのに、その音までもが思い出せない。楽しそうに笑っていたはずなのに、その笑顔に音はなかった。
 それでも、こうして現れてくれた。忘れませぬと言って別れたくせに色も声ももう分からない薄情な自分を、彼は迎えに来てくれたらしい。ならば自分は、彼にとって何か特別なものであったとうぬぼれてもいいのだろうか。
「ああ、よかった。見つけられた。ホウ徳殿、ここにいたんだね」
 ホウ徳は、苦しい呼吸の中でそっと感嘆の息を吐き出した。若者らしい涼やかさを持ちながら、甘い艶をも感じさせるこの声音。鼓膜を打つ波が心地よい。彼のこの声が自分の名を呼ぶと、まるでそれが特別優美なものになったような気がして面映ゆかったが嬉しかった。それがそっと笑む声を、自分はまるで歌のように思って味わっていたのだ。
 傍にそうして膝をついては、服が汚れてしまう。制止したくて必死に持ち上げた左手を、郭嘉はそっと両手で包み込むように握った。温もりのない冷たい手だった。どうにかして温めてやれればと思ったが、すぐに自分もこうなるのだから、あまりに無力であった。
 せっかくこうして話ができるのだ、気の利いたことのひとつでもきちんと考えておけばよかった。だがそういうことは自分には向いていないのはわかりきっていて、何も浮かばなかったし、そもそも唇は凍てついたようにほとんど動かせない。細い息に混ぜるようにして囁いた言葉は、声を思い出した今、最後の心残りであった。
「郭嘉殿……目が」
「はは、思い出せないのかな。よく言われるよ、こっちに来たひとはたいてい言うかな。笑顔ばかりが記憶にあって、目の色がわからないんだってね」
 こんな状況にあって郭嘉はやはり飄々としていた。やはり歌うように楽しげに笑いながら、血だらけの手を何度も撫でてくれる。
「笑っている顔だけを覚えていてくれるなら、その方がうれしいとも思うのだけれど……」
 郭嘉がそっと顔を寄せてきた。
「ね、まだ、見える?」
 本来ならば吐息を感じられるような、あまりに近い距離であった。呼吸の音がしないので、何か改めて突きつけられたような心地がした。心臓がひとつ跳ね上がる。郭嘉は構わず、まっすぐにこちらを見据えた。優しい眸だ。その円かな中に宿るのは淡い黄金のきらめきであった。この長雨である、まさか最期に月を目にすることができるとは思ってもみなかった。
「なんと、美しい」
 音になったのかは分からなかったが、郭嘉の月は次第に潤み、その形を歪ませていく。それでも変わらず綺麗だと思うのは、間違いなく、相手が彼であったからだろう。
 ありがとうと笑んだ郭嘉は楚々として、脳裏に閃くどの姿よりも遥かに鮮麗であった。本物の笑顔は記憶にあるものよりもずっと晴れやかだ。笑んで目を閉じたせいで零れ落ちた水滴が、雨に混じって落ちて行く。拭ってやれないのがもどかしかった。郭嘉ははにかんで、こちらの視線から逃げるように遠くを見つめてひとつ鼻をすする。一度手を離して自分で目元を拭って、再びこの手を握ってくれた彼の細い指には、少しだけ力がこもっていたような気がした。
「ホウ徳殿、私、笑ってしまったよ」
 こちらへ視線を戻して微笑む郭嘉の眸はすぐに揺れて、せっかく拭ったはずの涙がまた零れ落ちてしまう。今頬に落ちた雫は、きっと雨などではなかった。
「そんなものを背負って、いくなんて思わなくて……本当に、ああ、おかしい」
 彼が笑むのに合わせて笑いたかったが、動かない。そういえば視界はすっかり闇に包まれていた。一切の灯りのない夜が来たようであった。その中に二つ、濡れた月だけが浮かんでいる。
「もし」
 郭嘉は言った。
「もし、私がまだ、今も生きていたら」
 そんなことを彼が考えてくれるだけで幸せだ。それ程までに有用な人間でいられたのだろうか。自分では判断がつかないが、郭嘉が惜しんでくれるならばきっとそうであったのだろう。それで充分だった。
 その躯を抱きしめるようにして、郭嘉は泣いた。
「あなたをそんなふうにいかせはしなかったのに」
 涙に滲んだ声もまた美しい。ほうと火が灯ったように胸が温かくなって、ホウ徳はいよいよ自分にも時が訪れたことを理解した。
 

☆2013.02.28