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 意直到の姿勢がすてきだねとかつて郭嘉が言っていたのは、恐らくは戦場においてそれがこの上なく便利だからである。何せ裏がないので扱いやすい。下手にずる賢いのを使うとせっかくの策を引っ掻き回されかねないし、あまりに愚かなのも指示が通らないから駄目なのだろう。頭が良く、素直なのが駒としては一番である。そういう意味で言ったに違いなかった。
 だが、そうそう簡単に本心を吐き出されるのも困ってしまうものらしい。郭嘉は珍しくうろうろと視線を泳がせて、先程すっかり飲み干したはずの杯へ再び口付けていた。どうせ僅かに縁へ残った滴がぽとりと落ちるくらいであろう、あの酒好きでは満足いくまい。それを眺め、曹仁はようやく二杯目へ手をつける気になった。白皙は酒に上気し、今そっと上下した喉の隆起もほんのりと赤い。桃や林檎のようで愛らしく、肴にするにはなかなかだ。
「もう一度聞くけれど、あなたが、本当にそんなことを」
 曹仁は鷹揚に頷いた。幼い少女に対する苦しい言い訳を告げ口したのは、間違いなく孫市であろう。あの日は散々に振られた後、二人きりで飲んできたというから自分の話が話題に上がっても仕方はなかったのかもしれない。そこで郭嘉は初めて、曹仁の情けない告白のようなものを耳にしたのだろう。
 そうだ、あれは告白だと疑われても仕方がなかった。思い出して、今更自分を恥じた。顔に熱が集まり、身体がかあと火照る。郭嘉であれば茹で上がったように赤くなっていたことだろう、だが曹仁は色白でもなかったし、そもそも表情を作る筋が硬いのかあまり感情が顔にでない質だ。だからこそ言葉や態度だけは正直にいようと思っていた。守ると言ったら必ず、どんな矛でも貫けぬ盾になる。恵まれた体格の猛将が多い中では自分は背が低い方であったし、軍師のように頭が回るわけでもない。優秀な人間の多く集う曹操の下では、何かひとつでも飛び抜けた才がなければ簡単に埋もれてしまう。そうなると曹仁は、誠実さ、潔癖さを推す他なかった。
 そしてそれをこの男が、すてきだね、と言葉に出してはっきりと褒めてしまったからいけない。だから多分舞い上がっていたのであろう、あのときは。きっと間違いなくあのときだけだ、曹仁はかえって冷静になって分析した。今思えば、いくら少女に助平と疑われたからといってあそこまで正直に話をする必要はなかったのではないか。彼女は何も分からなかったであろうが、それこそ好色の孫市はその裏側の意味まで理解するに決まっている。孫市に知られれば、あの戦いの中で馬が合ったらしい郭嘉に伝わるのは当然だった。意味もなく叫び出しそうになって、慌てて酒を呷る。
「あれは何だったの。そんなことを人から聞いても困るよ。一応聞くけれど、私は、どう受け取ればいいのかな」
 あなたの口から言ってと、郭嘉は空の杯の縁をくるくるとなぞりながら上目にこちらを窺った。もう既にいじけたような格好である。この男は軍師だ、曹仁のことはよく理解しているに違いなかった。そう簡単には動かせない、山のように強固な鉄壁。揺らぐとしてもほんの一瞬、見間違いかと思うくらいに微かである。つまり、あれはきっと、賞賛に喜び浮かれた調子で思わず言ってしまっただけであり、本心ではない。そう信じるしかなかった。だから、間違いとして済ませるのが一番穏便なのだ。曹仁は言った。
「額面通りに。そうしていただければと」
 郭嘉は溜息を吐き出した。長い長い吐息であった。安堵は間違いなくあっただろう、宙に浮いたような心地のままではこれからやりにくい。それで十分だ。しかしもしもそこに未練らしいものがあるとすれば、それだけで曹仁は報われる気持ちがした。
「まあ、まあ……あなたは、曹操殿の盾のようなものだから、そうなったら、曹操殿の軍師である私のことも、守らなくてはいけないきもちは、わかるような気はします。すこしだけね。本当に何となくだけれど」
 変に饒舌だ、郭嘉も焦っているのだろうか。ふらふらと女に声をかけているからこういうことは得意であろうと思っていたのだが、思われるのには慣れていなかったのかもしれない。今となっては知りようもないが。
「郭嘉殿は実に素晴らしき軍師。これからも、必ずやお守りいたそう」
「はあ。何それ、何だか振られたような気分だよ。自棄酒しようかな」
 左手は気怠そうに頬杖をついたまま、ん、と杯を突き出すので、曹仁はそこへなみなみと酒を注いでやった。控えろと何度も言ってきたのだが、今日ばかりは仕方がなかった。
 溢れる程に注いだそれを郭嘉は一気に飲み下す。大きく上下する喉仏はやはり艶めかしい。なんたることだと、曹仁はいよいよ自分に呆れてしまって、手にした酒瓶をそのまま呷った。郭嘉に注いでやったとはいえ、まだかなりの量が残っていた。
「曹仁殿がわるいのですよ」
「うむ。自分が悪いのであろう」
 これは悪い酔い方をするだろうと、お互いに確かな予感があった。
 

2013.02.27