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 戒を心に留めておくべきは何も人格者だけではないだろう、というより、郭嘉はそれらしい気質を持つ優秀な人間であるくせに、ある一点においてどうしようもなく爛れているからいけない。夏侯惇は今程それを強く思うことはなかった。廊下でたまたま鉢合わせたどう見ても夜遊び帰りの郭嘉はといえば、まさか見つかるとは思っていなかったらしい、ふらと視線を泳がせていた。しかしそれもほんの一瞬であり、今ではすっかりいつもの笑顔に戻っている。どこへ行っていたとの問いに、あなたには関係ありませんともう流れるように応えるのだから流石だ。
「お前は孟徳の物だ、下手に動かれては俺が困る」
「それについては否定しませんよ。けれど、それであなたが困るのはどうでもいい……かな」
 いたずらに笑んで去っていこうとするので、夏侯惇は静かに郭嘉の前で立ちはだかった。今日こそはしっかりと叱ってやらなければならない。どうやら効果は薄いようだが、何も言わないよりましだろう。
 むと微かに眉をひそめて右の脇からすり抜けようとするので、そちらへ身を寄せれば、ちらと左へ視線を向ける。通すまいと両手を広げて仁王立ちすると、じっとこちらを見上げてくる。通さんぞと念を押すようにして唸れば、郭嘉は唐突に、ぱっと華やかな笑みを浮かべた。そのまま、胸に飛び込んでくる。郭嘉は細身だし、不意を突かれたとはいえがたいのよい夏侯惇がまさか倒れてしまうことはなかったが、その驚きにはさすがに目を向いた。両手を広げていたせいで迎え入れたような感じがして、むず痒い。
「か、郭嘉!」
「はは、ああ……楽しい。ありがとうございました、夏侯惇殿」
 花のようなかおりが鼻孔をくすぐる。移り香か郭嘉自身のものか、夏侯惇にはわからなかったが、胸元を愛撫のように一撫でして離れていくしぐさはあまりに慣れ過ぎている。夜の熱をにおわせるようないやらしさがあって、知らず唾を呑み込んだ。そうして呆気に取られた隙を盗み逃げるのが常なのだろう、こっそりと歩いて行くのを視界の端に捉え、正気に戻った夏侯惇は慌ててその薄い肩を鷲掴みにした。どうかしたのですかなどと首を傾げてみるのが白々しい。
「もう少し控えろ。お前は色狂いだとまで言われているんだぞ!」
「あなたは闘争をしないといられない悪鬼みたいですけれどね」
 強く怒鳴ったのにすぐさま痛いところを突かれ、思わず言葉に詰まってしまった。色事はともかく、それに関しては夏侯惇も懲りず、戒めが足りない自覚はあった。郭嘉の柔らかな黄金の眸がじっと見つめているのは、中身のない左目だ。
「そんな代償を払って、まだ戦いたいのですか」
 射抜かれたそれを引き千切り、喰らった感触は簡単に蘇ってくる。郭嘉もまたその光景を見ていた。ただでさえ青白いその顔を一層青くしてうろたえるさまがおかしくて、血の味に吐き気を覚えながらも不思議と笑みが浮かんでいたのを思い出した。
「これも、孟徳のためだ。お前も孟徳の軍師を気取るなら、相応の覚悟がいる」
「……ええ、わかっているつもりです。あなたの目では見えないのでしょうけれど」
 夏侯惇は微かに笑った。この隻眼を引き合いに出すくらいなのだから、郭嘉にも相応の覚悟はあるのだろう、夏侯惇では計り知れなかったが。態度は悪いが、能力は確かだ。そうでなければ曹操も傍へ置かない。
 ならばいいのだと頷いて解放してやるが、今度は一向に去る気配がない。不審に思って声をかけると、ぽつりと郭嘉が呟いた。
「やっぱり、あなたが見ているのは、曹操殿の軍師の私ですね」
「そうだが……何か違うのか?」
 ややあって、小さく首を振る。もう失礼しますとの言葉に軽く頷いてやれば、きりと唇を噛み締める。そうして夏侯惇の胸を押し退け走って行った、邪魔だと言いたいらしかった。郭嘉は大して腕力はない、ぶつかったり殴られたところでその衝撃など微かなものだ。だが今度こそ、夏侯惇はふらふらと倒れ込んでしまった。
 

2013.02.25