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 面楚歌だろうにと、ぼんやり考えていた。
 徐庶殿、といつもは涼やかな声が精いっぱいの低音で凄むので、応じた徐庶の声は情けなく上擦っても仕方がない。珍しいことに郭嘉は秀麗な眉目を吊り上げて怒っているのだから、自分は余程のことをしでかしたらしい。顔が整っている分凄むとかえって怖いのだ。それを宥めてやりながら徐庶はその理由を探していた。しかし何も思い当らない、悪いことをした記憶は、昔はともかく最近ではあまりなかった。
「あの……俺は、何をしたかな」
 こうなれば素直に尋ねるしかない、恐る恐るそう問えば、郭嘉の唇からは大きな溜息が零れた。
「曹操殿のこともあるし、私は散々断ったんだ」
「ええと、君をこちらに連れてきたときのことかい」
 わざとぼかした言葉を明確にしてみせると、郭嘉は不満げながら頷いた。優秀な軍師がいるというからどうしても引き抜きたくて、曹操の目を盗み足繁く郭嘉の私邸に通ったのは記憶に新しい。
「そう。三顧どころではなかったから、私も観念してあげたのに」
「ああ、うん。君がいないと、この国は立ち行かないよ」
「君主のあなたがそういう態度だから、問題だと言っているのだけれど」
 郭嘉が怒るのも無理はなかった。徐庶は国を興してからというもの、ほとんど外交や内政に気を遣ってこなかった。というのも立ち上げたばかりの弱小国など周囲の野心溢れる国々の恰好のえさでしかなく、放浪時代に出会った今の大将軍と二人、国土を守ることを考え必死に戦うだけであったからだ。そこで何とか口説き落として軍師を手に入れ、国内外のことをすべて任せてきたのである。徐庶のような人間にその手のことが上手くできるはずもなかったし、郭嘉は適役であった。
 初めこそ戦の策ならともかく、と渋っていたが、この男は元々聡明であった。外交の手腕をすぐさま発揮して周辺諸国と手を結んだし、何より徐庶がずっと放っていたこの国の内情が余程つらかったらしい、情勢の落ち着いた今では国や民のことを思ってよく働いてくれている。戦に明け暮れ荒廃しきった暗い国を、夜でも女子供が安心して歩ける程に治安よく変えたのは間違いなく郭嘉の力であった。
「君主殿、大将軍殿にも言っておいて。鍛錬も大事だと思うけれど、民のことも考えてあげて欲しい」
 そう言って、小脇に抱えた書簡を卓へ広げた。郭嘉が馬を走らせ結んできた同盟の内容や城に残る食糧や武器の備えのこと、最近徐庶が国内で探し出した人材についての詳細や民の暮らしぶりまで、細やかにまとめてある。君主が国土を守ることしか考えていなくても、良い臣下がいれば案外何とかなるものらしい、徐庶はすごいなと素直に感嘆の声を漏らした。本当はあなたも考えなくてはならないのだからねと怒られてしまった。苦笑すれば、郭嘉はまた溜息を返す。憂う顔もまた格別の色気があった。
「ね、徐庶殿……曹操殿のところを出てきた手前、仕えた国が荒み放題だなんて、示しがつかないんだよ。わかってくれるかな」
「ああ、すまない。本当に、俺なんかに君はもったいないくらいだよ」
 徐庶は軽く微笑んだ。その言い分もわかるが、二言目には曹操だ。こちらがしつこく声をかけ、ほとんど無理やり連れてきたような格好なので、仕方のないことだと頭では理解している。
「……郭嘉殿、ええと、各国との同盟の方はどうなっているんだろう。これに書いてあるかな?」
 手元に転がって来た書簡を指して問えば、郭嘉はためらうことなくこちらへ近寄って中を検める。
「ああ、これは先日大将軍殿が襲撃してきた成果だ。同盟については、こちらだね。とりあえず急ぎは曹操殿のところかな、もう一月もしない内に切れてしまうよ。また私が」
 おねがいしてこようと言いかけたのであろうが、それは言葉にならなかった。書簡が床へ散ってがらがらと音を立てる。丁寧にまとめてくれていたのに申し訳ないなどと思うはずもなかった。卓に押し付けられた両手を代わる代わる見て、郭嘉はこちらを呆然と見上げてくる。
 民を甘やかすのももういいだろう、郭嘉が十分よくしてくれたはずだ。曹操を攻めようとの提案に、郭嘉はほんの一瞬だけ顔色を変えた。そんな隙を見せてくれるとは、これでも中々信頼されていたらしい。
「曹操殿は、強いよ。まずは他から攻めた方が確実だと思うのだけれど」
 徐庶は薄く笑みを浮かべた。郭嘉以外の人間は皆徐庶自身が見つけた猛将ばかりである、反対する人間は一人としていないだろうし、曹操相手でも十分に戦えるはずだ。この男は仕事に忙しくて、そんなことを知る機会もなかったのだろうが。
「君はもう俺の軍師なんだ。分かってくれるかな」
「わ、わかっている、つもりだけれど」
 郭嘉は言った。震える喉は愛おしかった。
「なら、もう帰るところはいらないだろう」

2013.02.24