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 噫の歌を詠んでいるのは誰であろうか、微かな歌声だけを頼りに曹操はふらふらと書庫へ足を踏み入れた。その差はあれど臣下には皆目をかけているつもりだし、ここでそんな詩を詠っているのも中々豪胆なものである。近くで聞いてみると、詩情にそぐわぬずいぶんと機嫌の良い歌声だ。見れば、卓に広げた数多の書簡を眺めながら男が一人歌っていた。思っていた通り、郭嘉である。
「やはり、郭嘉であったか」
 そう声をかければ郭嘉は楽しそうに最後の嘆きを口にして、軽やかに笑ってみせた。
「いったいなぜ、私だとわかったのでしょう」
「おぬしのその声、分からぬはずがなかろう」
 こちらを試すように首を傾げてみせたので、曹操はそうきっぱり言い切った。嘘偽りのない真実だ、郭嘉の声は心地良く、優しい響きがする。夜になるとまた違ってくるのだが、陽の高い今ではこんなものであろう。
「だが、その詩には合うまい」
「ええ、そうでしょうね。でも、あなたにお仕えしていなかったら、私もそんな心境だったのかもしれない。そう思うとうれしくなってしまって……」
 声も弾んでしまいますとはにかむので、曹操は感嘆の吐息を零した。これ以上ない賞賛を受けたような気がした。
 程cが推すのだからどれ程落ち着いた人間であろうと考えていたが、実際に会ってみると、まずその若さと美しさに驚いてしまったし、見た目に反して弁舌さわやかで趣味まで合う、これ以上ない人材であった。それがあの袁紹を見限って仕官してきたのだから、余程自分のことを気に入ってくれたに違いないと曹操は思っている。自分と袁紹とがその眼鏡にかなわないというのなら、他の誰も郭嘉を満足させられなかったであろう。若い頃は名前を隠していたというし、袁家を切り捨たあの身は、曹操が放っておけば世に出ることはなかったに違いない。
 それがそんなしおらしいことを言い、顔を赤らめるのだから、曹操の顔が多少だらしなく緩んでも仕方はなかった。才さえあれば見目など二の次だが、傍に置くのに美しくて困ることは何もない。
「その言葉……よもや他の者に言うまいな」
「もちろんです曹操殿、あなただけですよ」
 そう言う郭嘉に、曹操は低く喉を鳴らして笑ってみせる。仕える主君に関しては厳しい眼で見定めるようだが、ただの女や男を相手にするとなるとこの男は移り気だ。城下で見かけたときにその隣を歩く相手が代わるのは当然だったし、一人で歩けば数歩ごとにまたねと何とも怪しい誘いを受けている。
 曹操はひとつだけ後悔していた、気に入られているらしいのをいいことに数回とはいえ遊び、主と臣下としての付き合いだけでなく、そういう関係まで持ってしまったからだ。この男の甘やかな声の、夜の声音を知られたことはこれ以上なく幸いであったが、同時に自らふいにされる可能性を作ってしまったのである。郭嘉はそういうことにとても寛容だが、下手に手を出していい相手ではなかった。
「そうご心配なさらず。曹操殿、私がお仕えしたいのは、あなただけです。他のことについては……ちょっと、お約束できないかもしれないですけれど」
 最後に冗談めいて弱音を漏らしてみせるあたり、全て真実だと思ってもいいのだろう。愛人のように囲ってしまいたいわけではない。主君としては、重用されないと嘆く自身を笑ってしまう程に愛されているらしいのだから、それで十分だ。
 曹操は郭嘉を近くへ呼び寄せると、その細い身体を掻き抱いた。屈強な兵士ばかりを見ているせいか、風が吹けば飛ばされてしまいそうにすら思えた。それがこの場に留まってくれると言うのだ、愛おしくならないはずがない。幼子にするように頭を撫で肩口へ顔を埋めさせると、郭嘉がそっと笑ったような気配がした。
「……たぶん、もう、あなたにしかお仕えできない」

2013.02.23