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 歩だけ歩む間に詩を作ることはできますか。言った郭嘉の笑顔は常と変らぬものであった。柔らかく顔を綻ばせ甘えるように目を細め、弧を描いた眸にあるのは穏やかな黄金だ。それに今はいたずらにも見える光を灯して、こちらをじっと見つめている。突然何だと不機嫌に睨みつけても、その表情は揺らがなかった。
「……それは、私に詠えということか」
「それもいいけれど、特に深い意味は。おもしろいことをお考えになるのだと、思っただけですよ」
 曹丕は眉間のしわをますます深くする。一体どこで聞きつけたのだろうか、郭嘉では知り得ない話だ。ごまかすように葡萄酒へ口をつけようとすれば、真っ白な指に止められた。
「飲み過ぎではありませんか」
「お前にそんな説教をされるとはな」
 顔色は指先と同様に青白いが、曹丕がその姿を見つける前から郭嘉はずっと杯を呷り続けていた、転がる酒瓶と独特のにおいがその証拠だ。そんな男に節制を求められるとは思ってもみなかったので、曹丕は思わず口端を吊り上げてしまった。
 幼いころから見続けてきたが、郭嘉は不思議な男だと思う。こういう掴みどころのない性格は勿論のこと、その慧眼もまるでまじないだ。淡い金は美しいが、妖しいきらめきもある。それを笑顔ですっかり隠してしまって、郭嘉は私はお話がしたいのでと笑った。そして一人、勝手に杯へ口付ける。
「気ままな男だ」
「曹丕殿がいつかのように倒れたら、困ってしまうからね」
 杯を空にして、郭嘉はにっこりと微笑んだ。互いがいくつのときのことであったか覚えていない程に薄らとしかない嫌な思い出が蘇り、曹丕は苦々しく思う。郭嘉がいつも機嫌よく呷っている美しい器の中には何があるのか。幼心にこの男へ不思議なものを感じていたのであろう、同じように飲めばその秘密の片鱗を知ることができるような気がして、憧れていた記憶は確かにあった。つまり曹丕は、年端もいかぬ少年の時分に、郭嘉の酒を盗み飲んで倒れたのである。
 郭嘉はそのときの曹丕しか知らないから、控えるようにと言ったのだ。曹丕にとっては嬉しい再会であっても、郭嘉にとっては違う。認識を合わせるのは難しかった。郭嘉はこちらのことをまだ幼子だと思って甘く見ているのだ、どうせ兄のような心境に違いない。見返してやると曹丕は意気込んだ。もういい歳だというのに、臣下に弟のように愛でられるばかりでは示しがつかない。
「では、お前も試してやろう」
「ええ、どうするのです」
 わかっているのかいないのか、まさかこの男に限ってわからぬことはないのだろうが、やけにゆるやかな仕草で頷いた。笑みが深くなったのは、恐らく子供の遊びに付き合うような気分になったからなのだろう。曹丕は声を低くして、凄むように口にする。
「七歩の内に、お前の才を見せてみろ」
 私の才かとぼんやり呟いて、郭嘉は空になった杯の縁を指でくるくるとなぞった。その明晰な頭はもうその指先と同じように動き始めているのだろうか。その余裕に負けてここで時間を与えては台無しだ。曹丕は急いで言葉を続けた。
「ただし、出来ねば父の元からは去れ」
「……ということは、曹丕殿が私を召し抱えたいということなのかな」
 確信を持った言葉に、深々と頷いてみせた。流石に察しが良い。曹操をいたく気に入っている郭嘉にとっては、恐らくそれは死と同じようなものである。そう思って曹丕は意地の悪いことを口にしたのだ。もう少しくらいは動揺してくれるかと思ったが、その表情は少しも変わらない。もう何か思いついてしまっているのだろうか、曹丕は焦りを押さえ込もうとして酒を口にした。苦みばかりが広がった。思わずしかめてしまった顔にくすりと笑んでみせた郭嘉は、杯を置いてゆっくりと立ち上がる。
「始めるがいい」
「はい、では。ここから、七歩」
 頷くと、郭嘉は楽しげに拍を取っていち、にい、さんと数え歩きながら、恐らく自身で開けたのであろう、転がる酒瓶を軽やかな足取りでかわしていく。
「しぃ、ご、ろく」
 美しい青の濃淡で染め上げた布が、細い背中の上でひらひらと花のように揺れている。金糸も弾んで、今にも歌い出しそうだ。だが郭嘉はただ数を数えるだけで、何か詩作するでも、策を弄するでもない。郭嘉が何をするつもりなのか、曹丕には考えてもわかるはずがなかった。踊るような長い脚に見とれるためには七歩では短すぎたと、ただぼんやり考えるだけであった。
 郭嘉の美しい手のひらが、飯店の入り口の柱へとんと軽く触れた。愛でるようにそれを撫でたと思えば、ななで敷居を飛び越えて、華やかな笑顔がこちらを振り返った。
「曹丕殿、とても魅力的なお誘いだけれど……私は、曹操殿にしかお仕えすることができないのですよ」
 郭嘉は言った。
「七歩もあれば、あなたの目の前からいなくなるのは、簡単なこと」
 やはり、敵わない。これは本当に底の知れないおかしな男だ。大人になったとばかり思っていたが、どうやらそうでもないらしい。自棄になって呷った酒は、嫌に熱く喉を焼く。

2013.02.21