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発展途上の捻くれ者

 思わず足が止まった。良い酒席の相手を見つけたからではない、まあ別に悪くもないのだが、今はあまり話をしたくない相手であった。しまった、馬鹿、動け。頭はそう指示しているのだが、如何せん足が動こうとしないのである。何かに睨まれたわけでもないのに孫市はその場に立ち尽くすことになってしまった、向こうから男が一人近づいてくる。ふらふらとした足取りだが、あの男の場合飲み過ぎでああなっている可能性を否定できないから難しい。たいまつの火に黄金の髪が光る。俯きがちに歩いているためにまだこちらにはまだ気付いていないらしい、男は胸を押さえて無防備に何度か咳き込んだ。嫌なところを見てしまった。隠れてやり過ごしたかったが足はそれを嫌がるし、このままではすぐに気付かれる、さて何と声をかけようか。
 馬が合うだろうということでよく共に出陣することになったのはまあいい。頭は恐ろしいくらいきれるし、あれで戦の腕も立つ。足を引っ張られたことはないどころか上手く助け合って戦ってきたつもりだ。皆が言うように確かに性格も似ている、あの男も自分も酒と女が何より好きだ。だから何も問題はなかった、なかったのだ。だが孫市にとってはこの上なく恐ろしい関係を、あの男と持ってしまった。
「あんなとこに出して何になるんだって話だぜ……」
 孫市は低い声で呻いた。耳聡い男ははっと視線を向けてくる、必要以上に怯えていたそれもこちらの正体に気付くと和らいだ。ひらひらと手を振って応え、溜息を吐き出す。
 あまりにも悲しい出来事だった。思い出すだけで胸が痛み、蹲って無意味に叫びたくなる。人生最大の汚点と言っても足りないのだ、流した浮名は数知れず、泣かせた女も星の数、そんな自分が衆道に手を出したのである。襲われたとはいえ勃起していたのも腰を振ったのも事実だし、あの男の腹の中に出したのも真実だ。まったく孫市にはありえないことである、この世界に来たときに頭がいかれてしまったとしか思えない話だった。挙句、直接そういうことを言われたでないにしろ下手くそと罵られたのである。屈辱だ。それ以外にない。
 しっかりと地を踏みしめこちらに歩み寄った男は、軽く首を傾げてみせた。ふわりと揺れる金糸の影を落とす真っ白な面が、美女のそれであったらどんなに良かったか。
「こんばんは。孫市殿、こんな夜更けに、いったいどうしたのかな」
「そりゃこっちの台詞だぜ、郭嘉。ふらふらになるまで何してたんだよまったく、この色男」
 今見てしまったものは忘れてやることにして話を終わらせる。じゃあなと軽く振った手をしかし掴まれてしまった。
「ちょっと、孫市殿。この間から私のことを避けているよね、あからさますぎるのだけれど」
 むくれた顔を寄せてこんな風に詰られるなんてなかなか悪くない恋の駆け引きだ、男女の間であったならば。整った顔である分本当に性別が残念すぎる、仰け反るようにして男と距離を取りながら孫市は叫んだ。
「んなこと言ったって、こんな時間にお前がふらついてたら絶対逢瀬だろうがよ!」
 郭嘉は僅かに瞠目すると手を離し、そうとも言うけれどと気まずそうに言った。この男の場合、引っかけて遊んでいるのが女ばかりでないから面倒なのだ。男と何かしらしてきた後の郭嘉を見てしまったら正気でいられる気がしなかった、勿論衆道への否定的な気持ちが掻き立てられるから嫌だという話であって、変な嫉妬心や欲が煽られるということではない。どっちなんだ、恐る恐るそう問うた。
「残念だけれど、男だよ」
 郭嘉はふいと顔を背けながらこともなげにそう言う。やはり、この男はどうしようもない。本当に尻が軽い、快楽主義者だ。孫市は夢でうなされんばかりに先日のことを気にしているが、郭嘉にとっては誰かと一夜を共にすることなど多分呼吸をするよりも簡単なことなのだろう。
 こちらが何を考えているかなどあの頭では簡単に分かってしまうらしい、刺のある視線だけをこちらに向けて、郭嘉は息を吐く。
「勘違いをしているのではないかな。曹操殿なのだけれど」
 孫市は思わず赤面した。曹操とこの男がそういう関係である可能性はなきにしもあらずといったところだが、そういえば近く魏の武将たちを中心とした連合で清盛軍の拠点を攻めるという話があったはずだ。自分もそれに出陣するよう言われていて、それを話していたのは他でもない郭嘉である。つまり彼は軍師として、この遅くまで真面目に仕事をしていたということだ。頭はいいのにそういうことを思われる程普段の素行に問題があるからいけない、何より疑ってかかった自分が悪いのだが。誤魔化すように頭を掻くと、わざと茶化して言った。
「やーっぱり曹操とはそういう関係だったってことか」
「軍議だよ。戦も近いのだし」
 拗ねたような声が言う。郭嘉自身不真面目な自覚はあるのだろうが、濡れ衣を着せられた上にからかわれては怒っても仕方がなかった。肩を気安く抱いて疲れているであろう身体を支えてやりながら、孫市はひらひらと手を振って笑う。
「こんな時間までかよ、もっとましな言いわけ考えろって」
 よくよく考えれば、こちらが意識し過ぎているのだろう。孫市は男色などもう絶対に遠慮したいし、あんなものは事故だと思いたい。郭嘉は一晩寝ることなど軽く考えているようだから、こちらが忘れてしまいさえすればそれであの件は終わりなのである。情はともかく杯を交わすには申し分ない相手なのだから、下手に意識するのがまずい。
「もう、本当だったら。私だって、毎晩毎晩好きでふらふらしているわけじゃないのだけれど」
「あーなんだ、調子が悪くてそれどころじゃないってことか?」
「……孫市殿って、やっぱりいじわるだね」
 郭嘉はひとつ大きな溜息を吐き出した。どんなときでも飄々としているこの男にしては珍しい、疲労の滲んだ表情である。励ますように肩を乱暴に叩けば苦笑し、咎めるように腕を取られた。
「戦が近いから、皆気が立っているんだよ。賈ク殿だって、おかしなことを言っていたし。官兵衛殿の顔は怖いし、半兵衛殿はえげつないし……」
「あいつらの顔と性格が恐ろしいのは前からだぜ……まあ俺から見りゃ、おまえも相当頭変になってると思うけどな」
 軽く肩を竦めて孫市はそう口にした。国や時代の垣根を越えて戦に向け、軍師たちは懸命に働きまわっている。郭嘉もまたそうだ、普段のこの男ならばあの手の揶揄を必死になって否定したりしないし、むしろ光栄だよぐらいは言ってみせるはずだった。連日缶詰になって戦のことばかり考えているのだから疲れも溜まっているだろうし、余裕がなくなっても仕方はないが。郭嘉はしばらく考え込むように軽く頭を捻っていたがやがて、まともに眠れていないからと溜息混じりに呟く。あの賢すぎる頭がこれ程時間をかけなければ気が付かないだなんて、やはり相当に疲れているらしい。
「だろうな、んな真っ黒な隈くっつけてりゃあ。色男が台無しだ」
 銃を打つ仕草を茶目っ気たっぷりに指で真似ながらそう笑ってやれば、郭嘉もつられて笑みを浮かべた。今夜はきちんと眠るとの言葉に安心して、孫市もひとつ頷いてみせる。適度の酒は良い眠りをこの男に与えてくれることだろう。元々呑みたい気分でふらふらしていたのだし、郭嘉は酒宴の相手としてはまずまずだ、例のことさえ蒸し返さなければ。二人で穏やかに酌を交わしたい、そんな孫市の希望はすぐに打ち砕かれた。
「ね、孫市殿。さっきの、この間も私に言っていたよね」
 こちらを見上げてくる眸はきらきらとあめ玉のようにかわいいくせに、その奥には明らかにいやらしい色の光が揺れている。全身から汗が拭き出すのを感じ、孫市はごくりと唾を呑み込んだ。男は郭嘉が初めてであったが、女とならばかなりの場数を踏んでいる。その豊富な経験が、この眸は駄目だと強く訴えていた。これをうまく誤魔化さなければ、かなりまずいことになる。
「え、ああ……いや、そうだっけ? まあまあ、せっかくだ、一緒に酒でも飲もうぜ」
「うん、それはとてもいいね。でも、もっと良い方法が私にはあるのだけれど」
 まさか分からないはずがないだろうと言わんばかりに、郭嘉が身体を寄せてきた。分かっている、分かっているから困っているのだ。孫市はああとかううとか情けなく呻きながら、その肩をそっと押し返した。誰彼かまわず寝たがるひどい男だが、郭嘉は本当に調子が悪いのだ、一応は。特に今はふらふらになっていたところを見てしまっている、それを突き飛ばして逃げるなど孫市にできるはずもなかった。そうやって曖昧な態度を取り明確に拒絶を示してやらなかったせいで、郭嘉は調子に乗り腕まで回してくる、まるで抱き合うような格好になってしまう。違う違うと繰り返しても一向に離れない。ついには背伸びをしてまるで接吻でもするかのように顔を近付けてきたので、孫市は凍りついてしまった。
「孫市殿は、後腐れがないから楽なんだ」
 目の前にある真っ白な貌の中で、そう紡ぐ唇だけがいやに赤く見えた。遊びだから、ただの処理だからと言い切って、郭嘉は緩やかな笑みを刷く。
「私のこと好きにならないし、私も好きにならないし」

 人目を憚るようにして兵舎の影に隠れ、その壁面に凭れかかりながら孫市は天を仰いだ。我ながら意志薄弱というか、情に流されやすいというか。まさか心の底ではこれを望んでいるのだろうか、思ってしまって慌てて大きく首を振る。快楽主義者の郭嘉にとってはこういうことは楽しい遊びとかいたずらの類でしかないのだろうし、孫市も石に躓いて転んだ結果少し擦り剥いてしまったくらいの認識で済ませることに決めた。何をされてもしても気にしなくてもいい。むきになる必要はないし、本気になるわけがない。
「んっ、ん、う……」
 そのはずが、この感覚は何なのだろう。股座に顔を埋めて必死に頭を上下させる郭嘉の姿に、胸の奥がかあと焼けつくような思いがした。その正体を孫市は良く知っていた、だがまさか男相手に感じるはずもない。艶やかな金糸を軽く鷲掴む。どれ程手触りが良く美しくても、これは男のものだ。それは確かに分かっている。
「は、ん……どうかした?」
 頭と手を止め、郭嘉がこちらを見上げてきた。上目になるその熱っぽい眸は男のそれである、今は動きを止めている手のひらもつい先程までは自身の陰茎を擦り上げたり、はしたなく後孔を弄ったりしていたはずだ。そうだ、これはいくらきれいでも男で、性器も自分とまったく同じ形ものがついている。繋がるべき場所もない。早まるな馬鹿、孫市は呪文のように心底でそう唱えた。妖しい炎のようなものがしゅうと消えていくような心地がする。このはっきりとした思考のまま、気持ちが悪い、やめろと叫んでこの男を突き飛ばしてしまえばいい話だ。我慢できないと言うならば大人しくひとりで処理でもしていればいい。もしくはそういう気のある男など探せばいくらでもいるし、そういう手合いには郭嘉は悪くないどころか極上とか言われる部類なのだろうから相手に困ることはあるまい。そちらの趣向など一切ないこの哀れな男を餌にしなくてもいいはずだ。逃げてしまえばいい。
「う、い、いや……悪い、痛かったか」
 ぐしゃと握った髪をつい優しく梳かしてしまって、孫市は強張った顔でそう口にした。突き飛ばして逃げろと言っているのにこの身体は馬鹿になったのか、欠陥でもあるのだろうか。頭を撫でられた郭嘉は嬉しそうに目を細めた。手のひらへ軽く擦り寄るようなしぐさに、まるで猫のようだと思う。喉でもくすぐってやろうかという気持ちになってしまって、慌てて孫市は唇をぎりと噛み正気を保った。
「べつに……ね、孫市殿。何なら、目を瞑ってみてはどうかな。私は勝手にするから……」
 気持ちよさそうに間延びした声が言う。言われた通りに目を瞑ったところでどうなるというのだろう、妄想ではどうあれ、男にしゃぶられ扱かれ射精するはめになる事実は変わらない。無駄なのだ。そう言い訳をして目を閉じようとしない自分に舌を打つ。
「そう言ってくれるなら、止めてくれた方がいいんだけどよ」
「それはちょっと……もう無理、かな」
 郭嘉は軽く笑って、亀頭を指でくすぐってきた。先走りを絡め取った人差し指をこれ見よがしに舌で舐める。そうして煽るような真似をするくせに、俯いた孫市の視界には確かに先走りを零す郭嘉の性器が映っていた。いやらしい手がまたそこに伸びようとしていたが、視線に気が付いたらしい、誤魔化すように孫市の陰茎を握った。性感を絞り出すように何度も手を上下させて扱き、舌で先端の孔を穿るように舐る。陰嚢がぐと持ち上がったような感覚がして、孫市は歯を食い縛った。郭嘉もその予感が伝わったらしい、わざと下品な音を立てて先走りを啜って濡れた唇をぺろりと舌で舐め、淫靡な笑みを浮かべる。
「そういうことは、もっと早く言ってくれなければ、ね」
「おっ、お前が勝手にしゃぶってきやがったんだろうが」
「はは、べつに特に減るものでもないし、いいのでは?」
「減るだろ! 俺は無駄打ちはしない主義なんだって!」
 やけになって喚く孫市がおかしくて堪らないらしい、郭嘉は緩やかに眦を下げている。楽しそうなその表情が崩れることはなかった、何を言ってもするりとかわしてしまう。
「何も無駄ではないよ、私が満足するから」
 ああ、と孫市は喘いだ。そもそもこの男の舌に勝てるはずがなかったのだ。この男は口が上手すぎる。手のひらで目を覆って、天を仰ぐ。呻きに似た言葉は白旗を上げたようなものだった。
「俺には何の得もねえだろ……」
「べつにいいでしょ、ね……のんであげるから」
 甘えるようなかわいらしい笑みを浮かべて握るのが陰茎なのだから、この男は恐ろしい。嬉しそうに口を開けて、ぱくんとそれを呑み込んでしまう。温かな口腔に包まれると、馬鹿になった頭がそこを膣だと誤解しそうになるそれならまだいい、この男の腹のように思えてしまった瞬間、全身の肌という肌が粟立った。喉が引きつる。無意識に腰を突き出して、鈴口を咽頭にざらりとこすり付ける。一瞬だけ苦しそうに歪んだ顔が殊更美しく、めまいがした。
 喉奥を精液が打っても郭嘉は大人しく陰茎を咥えている、先に顔をしかめたのがまぼろしであったかのようにただ静かに目を伏せている。すべてを受け止めると、ゆっくりと顔を離して立ち上がった。脱力して壁にもたれかかる孫市の体を覆うように片手をついて身を寄せて、口を開く。ぽかりと空いた穴の中にきれいに並ぶ歯。そんなところまで美しく整えて一体どうするのだと、どうでもいいことを思った。喉の奥にどろりと溜まる白濁だけがひたすらに汚らしい。名残を惜しむようにゆったりと唇を指先でなぞって、郭嘉は静かに口を閉じる。喉仏が大きく上下する。孫市は息を呑んだ。こくんと音を立て、もう一度開いた口の中にあの欲望のかたまりはない。乱れのない歯列と、真っ赤な舌だけが取り残されている。
「ふふ、ごちそうさま」
 ぺろと口端を舌で拭って郭嘉がいたずらに笑った、瞬間孫市は大きく息を吐き出した。激しく上下する胸と乱れる呼吸に、どれ程長く息を止めていたのかを思い知らされてしまう。
「もしかして、気持ちよすぎてしまったかな」
 軽く首を傾げてこちらを見下ろす郭嘉は今やただの男でしかないのに、孫市はただ頭を上下させて何度も頷くことしかできなかった。あまりにもおぞましく、あまりにもいやらしい光景だった。何とか息を整え、うらめしく男を睨み上げる。こういうことをしている間柄には似つかわしくないそれに怯んだのか、郭嘉はわざとらしくくすくすと笑い嫌な沈黙を取り繕った。
「お前、まじで誰彼構わずこんなことしてんのか?」
「そうだけれど、どうして?」
 きょとんとした表情で軽く首を傾げている。こんなことばかり繰り返しているのだとしたら、この男、本当にどうしようもない。こんな風に男を煽って、喰らって、弄ぶには、郭嘉は美しすぎる。駄目だと分かっていても捕まえるのに躍起になってしまいかねない。曹操がこの男を寵愛したのも頷ける、孫市はじっと黙って考えていた。ああいう危うい遊びを楽しむような人種には似合いだろう、郭嘉という男は。傍に大事に置いてあっても振り返る瞬間消えるような、妙な儚さが郭嘉にはある。手に入らない、手に入れたいと焦らされるのは、手に入れたときにぶつける欲求を大きくさせるものだ。
 孫市はふと大きく息を吐き、胸を撫で下ろす。疲れ切って苦しそうな今、頼って来たのが自分でよかったと心底思ったのだ。悪い相手の手に落ちたなら、何をされるか分からない。
「ひっかけたのが俺で良かったと思ってな」
「私も今日は、あなたでよかったと思っているよ。孫市殿は上手だしね」
 からかうような声は耳に心地良いと同時に、現実に立ち返らせるような響きがあった。擦り寄るのも上手いが、突き放すのはもっと上手い。華やかな笑顔を向けられ、孫市は苦虫を噛み潰したような表情になる。
「この間下手くそだって笑われた気がするんだが……」
「そう? はは、私も悔しかったのかも。ね、試してみたい?」
 いたずらな光を眸に宿して、郭嘉が囁いた。優位に立たれているのが悔しかった。ここで止めておくと答えてやれば一体どんな顔をするだろうか、一瞬だけ意地の悪い気持ちになったが、やはり下手な相手を喰わせるよりは自分が犠牲になった方がいい。
 抱き寄せた身体に女らしい柔らかさはなく、ごつごつとした骨の感覚だけが返ってくる。やる気になったのかなと笑い見上げる視線にひとつ舌打ちだけをして、孫市は郭嘉の身体を壁面へと押し付けた。そしていざとなって、孫市は逡巡した。やはり男だ、ふくらみのない胸と細いだけの腰、角ばった尻からは木の枝のように脚が続いている。魅力のひとつもない貧しい肉体だった、この顔がくっついているのが不自然なほどである。郭嘉はその聡明な頭で孫市の戸惑いを察したらしい、苦笑をひとつ、やっぱり止めておくと問うてきた。
「いや、ここで止めるって、流石に男が廃んだろ! た、多分……」
「ふふ……べつに、あなたまで無理をして、踏み外すことはないと思うのだけれど」
 呟き、郭嘉はくるりと向きを変えた。壁に両手を突いてこちらに背を向ける。こんな格好をさせてなお放っておくわけにもいかない、恐る恐る藍色の衣を捲れば、乱れた下衣が窺えた。
「さっき舐めているときに慣らしたから、どうぞ、孫市殿」
 言われても、一線を越える勇気が必要だった。孫市は本当に女だけが好きであったし、先日は郭嘉に襲われたと言うのが正しくて、ねだったような形であったとはいえ自分から挿入をしたわけではない。孫市にとってはまさしく踏み外すという表現が正しかった。食うに困ってついにあんたも男に手を出したかい、などと友人にからかわれるのは目に見えていたし、何か、歯止めが効かなくなりそうな底知れぬ恐ろしさがあった。
 恥ずかしいところを晒されているというのに、郭嘉は大人しく壁の方を向いて俯いているだけである。表情も見えないのだ、何を考えているのかなど分かるはずもなかった。こんな情けない格好をして、思うところはないのだろうか。孫市はぐと奥歯を噛み締めた。なかったら、先のような言い方はしないだろう。
 やはりこの男を放っておくわけにはいかない。面倒見の良い孫市にそんなひどいことができるはずがなかった。自分で解したという後孔に性器を宛がえば、熱くぬかるんだ感触が伝わってくる。思わず怯むが、郭嘉が息を呑んだのを聞き逃しはしなかった。何か声をかけてやるべきかとも思ったが、男が相手だと思うといつもの歯の浮くような台詞のひとつも出てこない。黙ったまま腰を進めれば、亀頭がぬるりと呑み込まれた。
「ううっ。あ、あ……っ」
 くびれたところを喰い千切らんばかりに締め付けられて頭がくらくらする。痛みにすら感じる刺激に呻いたのが分かったのか、郭嘉は大きく肩を上下させて息を整え始めた。喘ぐ呼吸を必死にごまかし、受け入れようと懸命に力を抜く姿はなんと健気なものだろうか。
「ごめ、っん、はあっ、は……だいじょうぶ、して……」
 肩越しにこちらを振り返ろうとするのを慌てて壁へ押し付けた。苦しみながらも笑顔を浮かべているであろうその顔を見れば、何かが本当に決壊してしまいそうだった。がつん、と思ったよりも鈍い音がしたが、それに文句を言う余裕は流石のこの男にももうないらしい。
 一番太いところを既に受け入れていたせいか郭嘉が力を抜いてくれたせいか、思ったよりも簡単に根元まで挿入できた。蕩けた粘膜に陰茎が溶かされるような錯覚。知らず溜息を零していた、熱っぽい陶酔に満ちた吐息だった。
 場数を踏んでいるとはいえ受け入れるのは苦しいに違いない、陰茎が中に馴染むのを待とうと動きを止めれば、それを叱るように郭嘉が腰を揺すった。顔を押し付けられたのが堪えたのか、こちらを向こうとはしないが、恐らくつらい顔をしている。誘い込むように蠕動するのに任せて奥へ押し込むと、郭嘉の体がずり上がった。あ、と甲高い声。緩やかな動きで引き抜けば、ふうふうと必死に息を整える。吐き出す息が震えるのすら知られたくないとばかりに噛み締めた唇が僅かに窺えた。相手を煽ろうとして馬鹿のように喘ぐでもない、意地の悪いことを言うでもない、ひたすら快感に耐えている。
 こんなことになるならば誘いをかけなければいいのにと思ってしまうが、この男はそうしないではいられないのだろう。それでも震えてしまう肩を認めて、孫市は小さく笑った。
「今日はやけに静かなんだな」
「は、っん……ふふ。孫市殿はもっと、声、出した方が……好き?」
 胸の芯を震わせる震えがあった。壁に押し付けた白い頬は今やほうと赤く染まり、唾液に濡れる唇は紅を引いたように色付いている。その身体に巡る血を思わせる鮮やかな色に息を呑んだ、それだけではなかった。鼓膜を震わせた言葉に蕩けた脳が阿呆のように喜んでいる。認めるしかなかった。そういう意味で口にした言葉ではないくせに、それらしい、妙な色がありすぎた。
「いや、うるさいのも鬱陶しいぜ……どうせ男の声だしよ」
 いくら高く艶めいた声をあげたところで男の声であることに変わりはないし、喘ぎ声など想像しただけで孫市は嫌な気分になってしまう。どれだけ見目が良かろうと気持ちが良かろうと、今こうしている相手は女ではないのだ、しかし。片目を窄め、ひとつ舌を打った。
「ま、我慢される方が気分悪いよな」
「っあ! く、ふう……うぅっ」
 一気に貫けば、抑えきれない声が溢れる。しまったとばかりにすぐに歯を食い縛ってしまう。孫市は腹の底に溜まる仄暗いものを自覚し、静かに目を細めた。壁へ添えられていた郭嘉の真っ白な両手が拳を作る、かりと小さな音がしたのは爪が少し削れたのだろう。ただ丸められただけの寄辺のない左手を掴み、ぐっと引き寄せる。体勢が崩れ、郭嘉はまた壁に頭をぶつけた。片腕とはいえ後ろに引っ張っているせいで身体が動いてしまうようで、奥を突かれる格好になる。
「あ、だめっ。やめて、孫市殿、あ、あぁっ」
 ほっそりとした背が仰け反った。くと上を向いた顎には口端から零れた唾液が伝い、汗と共に胸元へと落ちていく。いつも涼しい顔をして微笑んでいるくせにこういうときにはやはり汗を滲ませるのだ、整った顔と青白い肌のせいで何か人間らしくない様子さえあるこの男でも。汗だくになり過ぎた快感にぶるぶると震えながら、それでも何とか声を抑えようとする強情さはいっそ好ましかった。好色を気取るくせに、何か妙な壁のようなものがこの男にはあるらしい。
 じっとりと濡れて色を濃くした金の髪がうなじに張り付いている。そこへ舌を這わせたのは、恐らく孫市自身もおかしくなっていたからだろう。自分と変わらぬ汗のにおいがしてかっと頭に血が上った。吐き出そうとする本能のまま腰を打ち付ければやはり郭嘉は声を抑えることができず、ついに甘い嬌声をあげた。
「あぁっ! んあっ、だめ、や、やだっ、ああ、ん……っ!」
 ぐう、と身体中に力がこもる。強張る両手を歪に握り締め、郭嘉は吐精した。絶頂に震えるその締め付けに耐えられず、慌てて性器を抜き去り身体を離す。低く呻きながら握った手の中に吐き出して、孫市はひとつ溜息を吐き出した。それがひどく充足感に満ちていたのが、冷えた頭には分かってしまって嫌だった。力が入らないのか郭嘉はくたりと地面に座り込んでしまう。そのままはふはふと必死に息をして呼吸を整えようとしていた。それに声をかけてやる気にもなれず、小さく上下する肩を尻目に孫市は懐紙で手を拭った。壁に付着した精子も片付けようと地に片膝をついて、ああと吐息を零す。本当に男を抱いてしまったのだという実感が、先日よりも強く迫ったのだ。そうした嫌悪感や倦怠感があるとはいえ、こんな姿を晒す男に片付けを任せる程孫市はひどい人間でもなかった。軽く唇を噛んで耐え、何とか後始末を終える。
 片付けをしてもこの独特のにおいまではそう簡単には消えまい。早くこの場を去ろうと名を呼べば、郭嘉は気だるげに振り返った。涙をまとった眸が緩慢なしぐさでこちらを見つめている。上気して色付いた頬を軽く手の甲で撫でてやると、郭嘉は小さく首を傾げるようにしてそこへ擦り寄り静かに目を閉じた。それを見下ろしてしまって、孫市はふと息を詰める。呼吸が苦しいのだろうか、少しだけ開かれたままの真っ赤な唇から視線が外せない、小さな口を控えめに彩るそれに夢中になる。自身の鼓動ばかりがうるさかった。頭の中でどく、どくと脈の音がして、何も考えられなくなる。血が沸騰したように熱い、くらりと、倒れそうになる。唇が近付く。ごくと生唾を呑み込んだ音がやけに響いたことで、孫市ははっとした。
「くそっ」
 信じられない行動を起こそうとしていたのを誤魔化すように吐き捨てる。その苛立ちを感じたのか郭嘉は首を傾げ、どうかしたのと問うてきた。いつもより一層ゆったりとした口調で、今にも眠ってしまいそうに聞こえる。何でもないと怒った声で答えて、孫市は郭嘉の腕をぐいと掴み立ち上がった。
「いたっ。孫市殿ひどい、乱暴だよ……」
 足腰が立たないのを無理やり引っ張ったせいで肩が痛んだらしい。恨めし気にこちらを見上げてくる。不満を訴えるように拗ねた男の顔には、もう気持ちが波立つことはなかった。
「うるせえなあったく! ほら、行くぞ郭嘉、こんなとこ見られたら腹切るしかねえぜ」
「もう、いじわる。私まだ疲れているのだけれど!」
 そう言いながらも郭嘉はこちらに寄りかかるようにして何とか立ち上がった。衣服を整えるのを待ち、肩を貸してやってふらふらと歩き出す。わざとそんな足取りにしたわけではなかったが、これならばただ酔いすぎただけの二人に見えるはずだ。ややあって、郭嘉がぽつりと呟いた。
「……ありがとう。孫市殿、おかげで頭がすっきりしたよ」
 見下ろせばはにかんだような控えめな笑顔がある。孫市は空いた右手でごしごしと目を擦った、事を終えたばかりの今が一番冷静であるはずだ。だからまさか見間違いなどはしない、何かがやけに輝いて見えたりなどは、するはずがなかった。
「いい策を出してみせるから、いい子で待っていてね」
 こちらを見上げてくる顔にあるのは、いつもの余裕たっぷりでいたずらな笑みだ、軍師らしい腹の黒さが浮き出したような悪い笑みだ。思っても、もうそうは見えない。孫市は慌てて顔を逸らした。これ以上近くで見ているのはまずいと分かってしまった。大股で歩いて、ほとんど郭嘉を引き摺るような格好になる。
「そういうのはいいから、とっとと歩けって!」
「ちょっと。早いよ孫市殿、待ってくれないかな……待ってってば!」
 喚く声に笑みが浮きそうになる。ぶんぶんと首を振って、孫市はまっすぐ前だけを睨みつけた。

2012.10.17