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嘘つきの月_サンプル


P5〜
 ホウ徳は己の眼力にそれなりの自信があったが、今回ばかりは相手が悪いと思わざるを得なかった。対峙するのは三人の軍師たちである。一人はよろしくと気安く手を上げてみせたが、もう一人は座ったままにこにことこちらを見つめるばかりだし、最後の一人に至っては目を合わす気もないのか、卓の後ろに隠れるようにして頭巾を目深に被り突っ立っているだけだ。見目ばかりに頼って人を判断するのは本意ではないが、一目で曲者と分かるような相手ばかりだった。そもそもこの識見というのもこうあるべきというホウ徳独自の信念に基づくものであって、かつての主に比べればずっと優れるというだけの話である。策を語って人を騙るような手合いに通じるのかと聞かれると、素直には頷き難い。
「ようこそ、ホウ徳殿、王異殿。私たちは、あなたたちを歓迎するよ」
 そう言って笑った男の姿が特に想像とはあまりにもかけ離れていたので、ホウ徳は面食らってしまっていた。卓に片肘をついて手のひらでその小さな顔を支え、にこにこと微笑みながらこちらを見下ろしているあの彼こそが、大陸の覇者となりつつある曹操の軍において最も有能な軍師だという。郭嘉、字を奉孝、占者のごとき慧眼の持ち主とは聞いていたがしかし、これが本当にそうであろうか。失礼だとは分かりつつもどうしてもそう思ってしまう。金の髪は鮮やかだがどこか浮ついたような印象を受けるし、華やかな衣もまたそうだ。西涼の屈強な男たちばかりを見慣れたせいかもしれないが、身体付きはひどく華奢で、四肢などまるで小枝のようである。頭さえ良ければその体躯など軍師には関係ないのだろうが、それにしても細すぎて頼りないような感じがしてしまう。
 共に曹操翼下となった王異はといえば、同じようなことを思ったのか、冷たい眼差しで彼を窺うばかりである。その鋭さすら気にした様子のない郭嘉は、王異をじっと見つめ、とてもいいねとのんびり笑った。
「まあまあ、ホウ徳殿、王異殿。あんたたちが来てくれたってなると心強いよ、これは本当だ」
「王異殿、どうだろう。この出会いを祝して一献……何なら私と、朝までおはなししようか」
「あなたたちのおかげで、涼州の力はかなり削れたはず。魏にとってはありがたいことですね」
 彼女の険のある目つきに苦笑しつつ口を開いたのは賈クだ。暢気な戯言ばかり口にする郭嘉の肩を軽く小突くと、あんたもだよと、郭嘉の後ろでぼそぼそと呟いていた徐庶を睨んだ。二人が参陣したことよりも、涼州から逃げてくれたことを喜ぶような言葉がまずいと思ったのだろう、ホウ徳は別段気にならなかったが。実際に馬超の暴走は目に余るものがあったし、馬騰の頃からの古参である自分が抜けたことによる影響は少なからずあるだろう。徐庶の言い分はもっともだ、だが確かに、もう少しましな言い方もあるのかもしれない。空気が張り詰めているのを察したらしい、賈クは困り果て、肩を竦めた。
「あははあ、あんたたちの力、期待してるからね」
「私たちの言うことは、すなおに聞いてほしいな」
「どうしても嫌なら、色々手段はありますが……」
 淡々と言う徐庶を郭嘉がちらと振り返った。彼も賈クと同じくその態度を注意する気になったのかと思ったが、ただ笑うばかりである。
「うん、そうだね……あなたにはどんな策を使おうか」
 組んだ両手に顎を乗せ、郭嘉は今度はこちらをじっと見つめた。目が合って、ひとつにこりと微笑まれる。顔が整っているせいかいやに迫力があって、狼狽えてしまう。彼は王異にずいぶん興味を引かれているようだったから、こちらへ話の矛先が向くとは思いもしなかった。こういう形の脅しは、自分には到底できるものではない。いかつい顔と身体は威圧こそしやすいが、こうして思わせぶりで危うい態度を取ってみせるのにはどうやっても向かなかった。
「どうせ、考えるまでもないでしょう」
 徐庶がぼやく。おおげさに咳払いしたのは賈クだ、窘めるように郭嘉の名を呼んだ。彼は軽く肩を竦め首を振ると、そっとこちらへ目配せをした。嫌になるとでも言いたげなしぐさであった。
 三人とも良く言えば個性的、悪く言えばあまりまとまりが感じられないが、郭嘉は特にひどい、先の笑顔もそうだが、初対面の女性相手にいきなり誘いをかけるなど、とてもではないが赤壁で呉蜀連合を破る程の策を弄した聡明な軍師には思えなかった。話によればこの三人の軍師たちの中で初めから魏に仕えていたのは郭嘉だけであったというし、曹操の大の気に入りだ、彼を見る目が多少厳しくなっていたことは否めないかもしれない。それにしてもだ、天下の俊英だというのなら、相応の風貌や態度というものがあるはずだろう。
 曹操に目通りする前にと通されたくらいなのだから、彼らは皆から信頼の厚い軍師なのだろう。だがどうにも、どれも癖が強すぎる。郭嘉はやはり派手で浮ついているし、徐庶はおどおどしていているのに口が悪い。二人に比べれば賈クはまだまともなようだが、腹に一物ありそうないかにも軍師らしい顔付きはなかなか信用しがたい。
 もちろん、こうなったら曹操軍への義は果たすつもりである。だが、彼らとはうまくやっていけるだろうか。ホウ徳は僅かに不安になった。長く仕えた馬一族を見限ってまでこちらへ来たのにはそれなりに理由もあるし、目的もあるのだ。曹操に仕える以上この命は曹操の物だが、それを実際に使うのは彼らである、その力量を見極めるのも重要なことだ。義を果たすべき主のためならば彼らの駒となり死すことも厭わないが、無駄死には避けたい。
 一向に雰囲気の良くならないのを取り繕おうと愛想笑いを浮かべた賈クは、いかにも親しげに両手を広げ、歓迎するよと繰り返した。
「まあ、こんな感じだが、魏の連中も悪くないよ。俺だって元は余所者だからね」
「曹操殿はとてもお強くてすてきな方だし、きっと気に入ってもらえると思うよ」
「あの、夏侯惇殿は少し怖いですが。郭嘉殿は頼りになるし、お優しいですから」
 郭嘉はそうかなと軽く微笑んだ。一応温和な人間であるのはその物腰から確かに分かるが、頼りになるかどうかはまだ怪しい。探るように目を向ければ、再び視線が交わる。小さく首を傾げられた。どう思われているか想像などついているのであろうに、白々しい。眉を寄せ、僅かに睨みを利かせる。しかし郭嘉は竦み上がることもなく、ゆるりと椅子から立ち上がった。
「ホウ徳殿、あなたの願いは何かな」
 かつかつ靴音を響かせ、目の前へ歩み寄る。当ててあげようか、試すような言葉にぐっと押し黙った。やれるものならばやってみろと、挑むような気持ちであった。
「あなた、馬超を助けたいと思っているのだよね」
 そしてホウ徳は、自分の胸の辺りまでしかない男相手に思いがけず気圧されてしまった。その柔らかな金の色をした眼差しに、それに続いて穏やかな声が紡いだ言葉に、ぐさりと胸を射抜かれたからだ。
「そう、思われる理由を。問わせていただきたい」
 そう言って郭嘉を注意深く窺う。口元へその白い手を運んでいって悩むのはきっとわざとだ、彼はこの焦りを見抜いた上で楽しんでいる。何となくでは納得いかないかなと笑むのに、はっきりと首を振った。苦笑してしかし、郭嘉はすぐに真剣な表情になる。柔らかい顔付きをしていたが、そうして気を引き締めるときりりとして精悍だ。心底まですっかり見抜かれてしまうような眩しさがあって、思わず目を細めた。
「あなたは馬騰の恩顧を蒙っていたから」
 その馬騰を殺したのは曹操である。なかなか私たちのところへ来られるものではないとの指摘に、ホウ徳は曖昧に頷いた。
「あなたは馬超に従っていたけれど……彼のことを、見ていられなくなってしまったのではないかな」
 自らの非を認めず、父を殺され激する馬超の吐く罵詈雑言といったら、とてもではないが正気で聞いていられるものではなかった。怨嗟の声は聞く人を引き擦り落とすものだ。どす黒い渦に巻き込まれて、彼の従兄弟や、王異のように共倒れてしまうわけにはいかない。止めてやらねばなるまい、ホウ徳はそう考えていた。西涼軍閥には劉備から打倒曹操の声が掛かっていたし、馬超がそれを断るはずもない。だから今の馬超と相対するには、馬騰を討った曹操でも、その下に参じるしかなかった。
「ああいう人間を助けるということが、どういうことなのかはわかっている?」
 手段がひとつしかないのは分かっている。それが大恩ある馬騰を裏切る形となることも理解しているし、もちろん心痛がある。だがそうであるからこそ、復讐に狂った馬超を止めてやれるのは自分しかいないのだ。ここへの道すがら聞いた王異の話とは目的こそ真逆であるが、同じものを求めている。だからこそこうして、揃って曹操の下へ参じたのだ。じっと郭嘉の眼を見据え、ホウ徳は静かに頷いた。
「無論、承知の上」
「うん。そういうことならよかった。ホウ徳殿、私があなたの願いを、かなえてあげる」
 まるでまじないのような言葉であった。鼓膜を揺らして全身に染み渡っていくような、不思議な響きを持っていた。占者というより呪術師だ。柔らかな声が発した言葉だが、相手を縛り付けてしまうような力がある。それは決して窮屈なものではなくて、緩やかな束縛だ。
「私たちを頼ってほしいな。ね、ホウ徳殿」
 警戒心が解けていくのを郭嘉も感じたらしい、楽しげに微笑みながら、少し首を傾げてみせた。そうする度、さらりと揺れる金の髪が美しかった。頼りにしている、頼られているという確かな関係は心地よいものだ。
「ま、そういうことだ。ここに来たからには、俺たちのやり方に一応従ってもらわなくちゃならない」
 賈クは頷き賛同してみせたが、徐庶はただぼんやりと郭嘉の姿を見つめるばかりである。
 諾と頷くホウ徳にひとつ笑んでみせて、郭嘉は王異へと視線を向けた。
「王異殿も。わかってもらえるかな」
「大丈夫よ、私の願いは馬超の首ひとつ。そのためなら何でもしてあげるわ、郭嘉殿」
 王異は薄らと笑みを浮かべた。何でもとおうむ返しに問うて、郭嘉の顔がぱっと明るくなる。
「そういうことなら、ぜひ、今夜は私と」
「郭嘉殿……まったく、そういうことじゃないだろう」
 頭痛でもしたのか、眉間を押さえながら賈クが溜息を零した。案外大人しく郭嘉は従い、はあいとふざけた調子で返事をする。賈クの隣へ並び立ち、卓の後ろで控えたままの徐庶を手招きした。個性の強い面々に思えたが、一応仲は良いのだろうか。三人揃うと、郭嘉は穏やかに笑みを浮かべる。そうして優しく差し伸べられた手を両手で握り締めてしまいそうになり、慌てて礼を執った。
「よろしくね、ホウ徳殿、王異殿。それぞれ思うところはあるだろうけれど。曹操殿のため、力を尽くそう」
 柔和な態度やしぐさのせいで妙な錯覚をしそうになるが、彼とは立場が違い過ぎる。とてもではないが触れられるものではないのだ。曹操の寵愛を受ける軍師と、その駒にしかなれない自分だ、当然触れてよいものではない。ホウ徳は恥じ入るように、より深く頭を下げた。


P25〜
 郭嘉はむうと唇を突き出した。これではまるで自分だけが何も分かっていないようではないか。子供のようなしぐさが愉快だったのか、徐庶が軽く笑った。
「あなたが得意なのは理解ではなく、掌握することです、違いますか」
 なるほど確かに、この男はよく分かっている。郭嘉は卓へ両肘をつき、組んだ指へ顎を乗せた。上目に窺う男の目には、もう確かに期待する色がある。
「そして俺たちはまさに……あなたにすっかり心を握られている、そうでしょう」
「ふふ、そう。わかっているね」
 なかなか有益な話であった。今後はあの男への警戒を怠るなということだ。こんなところで引っ掻き回されては堪らない。同志であるとはいえ、その動向は注意深く観察しなければならない。それもまたずいぶんとおかしな話であるが。郭嘉はつい声をあげて笑い出しそうになるのを何とか堪え、徐庶の願いを聴許した。
「いいよ。徐庶殿、おいで」
 徐庶はゆったりとした足取りで卓を周り込むと、腰かけたままの郭嘉のすぐ横に立った。軽く手招きしてやると、腰を曲げ、覆いかぶさるようにして口付けてくる。両腕をその背へとしっかり回し、逃げられないようにしてみたのは気まぐれだ。恋人のように愛し合う行為もたまにはいい。徐庶は立っていてこちらは座ったままである、縋るような格好になったのもよかった。戦場に赴く男との最後の別れを惜しむ女の気分だ。
 唇を舐られる感触にくすくすと笑うと、僅かに開いた唇から舌先が捻じ込まれた。受け入れてやろうと口を開けば、徐庶は口付けをいっそう深いものにする。ぐっと体重をかけられ、無理に上を向かされたままの首が痛んだ。歯列をなぞった男の舌が、自身のそれの表面を撫でていく。くすぐったさに身じろぎをしてそっと甘い吐息を零せば、ふと顔を離してしまう。
「どうかした?」
「いえ、何でも……」
 その眼はもう欲情しているくせに、焦らしてみるなどして陰険だ。郭嘉は鼻を鳴らして徐庶の腹の辺りへ擦り寄った。軽く頭を撫でられる。あやすようなやり方は少し不快だったが、わざわざ指摘して責めてやる程のことでもないので黙っていた。
 郭嘉の座る椅子の隅へ膝をつき、徐庶は少し身を屈めた。見下ろされるのは変わらないが、僅かに視線が近くなる。じっと見つめる黒い眸は暗闇のようだ、今でこそ情欲に濡れているが、この男は感情を押し隠してしまうのが上手い。ただその点は郭嘉も自信があった。ひとつにこりと笑んでやると、溜息が鼻先をくすぐる。
「あなたはいつもそればかりだ」
「あなたもいつもそんな顔をしているよ」
 無精ひげの生えた顎を擦り、僅かに首を傾げてみせる。したいようにさせてくれるらしい、徐庶はその目の動きだけで郭嘉の手を追った。
「陰鬱で、暗澹として、物寂しい……」
「お嫌いですか」
 そっと顔をあげると、男の眸とぱちりと視線が交わる。鼻先はもう触れていた。濡れた唇が近寄ろうとするのを指先で軽く窘め、いたずらに笑う。
「ふふ、どちらかと言えば。私、頼りがいのありそうな、逞しい人の方が好きなのだよね」
 言うなとばかりに口付けられ、郭嘉はうっとりと目を閉じた。この男の顔は確かにあまり好みの方ではないが、舌を絡ませ唾液を混ぜ、呼吸を奪おうとする、この接吻の仕方だけはいい。郭嘉はこうして徐庶と身体を重ねる度そう思っていた。その辛気くさい顔からは考えられないような荒っぽさはなかなか悪くないものである、あまりに乱暴だと嫌になってしまうが。
 徐庶は口付けもそのままに、手の甲で軽く左の頬を撫でてきた。これから触れるというときには、いつもこうしている。どうやら無意識らしいので、どうしてこういう風にするのかと尋ねたことはなかった。耳の飾りへ触れ、首筋を撫で、鎖骨を辿ると衣服の合わせへ潜んでいく。わざと爪の先で乳首を掠めてから腹を撫でるのもいつも通りだ。円を描くようにゆったりとそこを擦り、胸にはなかなか戻ってきてくれない。もどかしさに喘ぎを漏らしてしまうと、少しであるがようやくそこへ触れるのだ。多少痛いくらいがちょうどいいと郭嘉は思っているが、この男はそこにはあまり興味がないのか、それとも意地悪のつもりなのか、軽く摘んでしまいにしてしまうことが多い。
 その手は次に太腿へ降りて、行儀よく揃えたそこをひたすらに撫で擦る。徐庶はそちらの方が余程気に入っているのか、やめろと言うまで延々撫でていることもあった。そうして変なところにこだわるのが徐庶らしいと思う、こういうことは簡単なようでいて案外難しいものだし、思いがけず性格が反映されるものだ。
「んっ……ふ、あ」
 膝を擦り合わせ、郭嘉は喘ぐ。下半身に触れたいならもうそこを触ればいいのに、本当にいつまでも太腿を撫でているからいけない。目を開けると、徐庶もこちらを見つめていた。にやと下品な笑みを浮かべられて、郭嘉は眉根を寄せる。そういう表情が一番好きではないと言ってしまったせいで、この男はいつもこうするのだ。文句を言おうと口を開きかけ、郭嘉は息を呑んだ。
 帳の向こうから、この名を呼ぶ声がする。適当な兵士なら招き入れてこの姿を見せつけても楽しめたかもしれないが、いくら何でもそういうわけにはいかない相手であった。曹操である。
 郭嘉は徐庶の首根っこを掴むと、その身体をこれ以上ないくらいの力を出して卓の下へ放り込んだ。無駄に大きな身体が窮屈そうにしているが、耐えてもらわなければ仕方がない。向こう側から足下は窺えない作りだし、曹操にばれたりはしないだろう。
 涼しい顔でどうかなさいましたかと声をかければ、静かに帳が開かれる。曹操はもうすぐそこにいると言うのに、苦しいのか徐庶がしつこく這い出ようとするので、郭嘉はその腹を足で軽く小突いた。うっと呻きが聞こえて、曹操が不審そうに首を傾げる。
「どうかしたか」
「何でもありませんよ。曹操殿こそ、こんな夜更けにどうなさいました。わざわざ、こんなところまで……私に会いたくなったのですか?」
 冗談めかしてそう尋ねれば、機嫌のよい笑みが男の唇に刻まれた。

2013.05.26発行