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悪魔の証明_サンプル


P3〜
 頬を撫でる風は熱く、脂汗の滲んだ肌を焼き尽くすようだった。夜は赤い。剥き出しの鎖骨を舐る炎がじりと嫌な音を立てる。一歩、二歩、ふらふらと後退った。ここにいてはまずい。どうにかして陸地へ逃れなければならない、思うのに、崩れるようにへたり込んでしまった脚がもう動かない。それでも、首とこの胴の繋がる限りは、この胸のまともに脈打つ限りは。ここまで何故だか生き抜くことができたのだ、一度死んだと思われたこんな身体はどうなろうと構わない。胸元へ手をやればずるりと薄い皮膚の剥がれるような感触がする。火傷など何になろう。構わない、考えなければ。ここからどうすればいいのだ。視界が赤い。焦る呼吸が喉を焦がすと、まるで頭が動かなかった。思案とはどうするべきだったのか。急がなくてはすぐに船が焼け落ちてしまう。そうとなればここから逃げるべきだろうか。だが足も動かないというのに。這ってでも逃げるのだろうか。逃げたところで、他の船は、皆は。ふと思った。
 曹操は。今は、策より何よりその安否が気がかりだった。自覚した途端、滲む涙のせいで鈍った鼻腔を突き刺すような異臭がする。これは。知覚すれば、燃え盛る炎の音を貫いて断末魔が鼓膜を打つ。
 せり上がる胃酸が焼けた喉を痛めつけて、郭嘉は慌てて両手で口を覆った。何人死ぬのだ。何人殺したのだろう。夜が赤い。あの月の色すらも染め上げて、無数の火柱が立ち上がる。焼け崩れ、轟音を上げて沈むあの船に一体どれ程の兵たちが乗っていたのだろう。暗闇に浮く無数の人影は、川面にぐらぐら揺らされている。顔も名もわからない者ばかりに違いない、だとしてもこうも簡単に失われていい者たちではない。あの命のすべてを預かっていたのだ、懸命に考えたはずだ。敵が炎と風を利用することはわかっていた。だというのに、どうしてここまで炎が燃え広がったというのだ。
 黒煙が熱風に煽られる。激しく咳込んでしまって、喉を締め付けるようにぐと押さえた。これまで悩まされてきた病とは違う痛みに全身が震えている。生きるのはこんなに恐ろしいことだったのだろうか。軍師とはこんなに悲しい仕事だったのだろうか。
 無様に背を向け、逃げていく以外にできることがあるというのか。何か策など出したところで、いまさらどうにかなるものでもない。他人に構う暇もなく、動けるものはどうにかして船を捨て陸へ逃げていくしかない。どんなに強い将も、賢い者も、曹操ですらも皆逃げ延びることを考えるしかない。それしかないのだ。ほとんど逃げ場のない船上をすべて燃やされてしまったのだから。
 つまり、動けない自分はここでようやく終わりということか。もともとそう長く生きていくつもりもなかったし、ここまで皆と共に来られたのだから十分すぎるくらいだろう。無理に生きる必要もあるまい。郭嘉はそっと目を閉じたが、まぶたの裏に赤い炎が焼き付いていてどうなったのだかよくわからなかった。船体が大きく傾いで、床へ倒れ伏してしまった。人の燃えるにおいが薄れてくる、焼けた木の爆ぜる音が遠くなる。こうなると、あのまま病に倒れた方がよかったような気がした。遠くからこの名を呼ぶ声がしている。典韋だろう、そう感じた。思えば、彼は助けられたのかもしれない。生きていれば曹操の支えになってくれたし、この戦場でも大いに役に立ってくれたかもしれない。そうすればこの状況も変わっていたのだろうか。どうにもならないというのに。郭嘉は自嘲する。そんなことを言い出したら、あの男もそうではなかったか。
 燃える視界いっぱいに、深い青が閃いた。曹操の好む宝石のような群青の外套だ。徐庶である。考えていたその男である。何とかその名を呟くと、男はそれに応じるように、目深にかぶった頭巾の奥でうっすらと微笑んだ。
「よかった、ご無事でしたか」
 嫌にはっきりとした声でそう言うと、徐庶は軽々と郭嘉を抱き上げた。逞しい将ではないにしても大人の男一人を抱くように持ち上げておいて、まったくふらつく様子はない。それどころか、船では馬も使えないですからねと苦笑して颯爽と走り出してしまう。
 一体どういうつもりなのだろうか。男の背へ腕を回して縋り付きながら、郭嘉はそればかり考えていた。やはりその動きは鈍く、思考はなかなかうまくまとまらない。炎の中これまで戦っていたのならこうも活力に溢れているはずがないし、そもそもこの徐庶という男は鬱々とした物言いをする人間だったはずだ。胡乱な目を向けると、気づいた彼は軽やかに笑ってみせた。こんなふうに笑う顔など見たことがあっただろうか。徐庶はひどく機嫌が良いように見えた。倒れた兵も逃げ惑う将も気に留めず、ひたすら陸を目指して走っていく。北部の船はまだかろうじて延焼を逃れていたようで、ここならいいかと独り言ち、徐庶はふと足を止めた。
 下ろしてもらったのはいいが、やはりまだ腰が立たない。ふらつくと、慌てて伸びてきた腕に抱きとめられる。ありがとうと言おうとしたが、とっさに声がでなかった。咳込むと、火傷もひどいのだから無理はしないようにと優しく諭されてしまう。郭嘉は徐庶を訝しんだ。間近で見れば、なんときれいな皮の衣だろうか。徐庶の得物は撃剣である、血しぶきのひとつだってありもしないのはいくらなんでもおかしい。この戦は曹操にとって重要なものになる、そんなことくらいこの男にもわかっているはずだ。諸将が懸命に戦っていた中、この男はまさかどこかで逃げ隠れでもしていたのではないか。疑いの目を向けようとしたが、骨の軋む程にきつく抱きしめられてはそれもできなかった。
 徐庶は肩口へ鼻を埋めて思いきり息を吸い込むと、満足げに吐き出した。血や汗で全身が汚れているし、そう何度もにおいを嗅がれると気恥ずかしい。思わず身じろげば、低く喉を震わせるようにして笑われてしまう。耳朶に触れる吐息がくすぐったい。胸を押し返そうとするが、疲弊しきった身体ではまともな力が入らなかった。そもそもこの男の方が一回り良い体格をしているのだ、こうして抱き込まれてしまっては、郭嘉にはもうどうしようもなかった。
「俺は、あなたを救いたかったんです。あなたを、どうしても死なせたくなかったんだ……」
 郭嘉殿と熱っぽく名を呼ばれて背が震えた。うなじに張り付いた髪を一房、手に取りそっと口付けてくる。徐庶は静かに目を細めた。いつもなら気弱に見える垂れた目が、不思議な力を湛えていた。決意だろうか、郭嘉はぼんやりと思う。それとも自信だろうか。そういう類のものだとして、一体何がこの男を鼓舞しているというのか。国の命運を定めることになるかもしれないこの一戦を放棄して、今までどこで何をしていたというのか。
 早くなるばかりの鼓動がうるさい、徐庶のものも自分のものもだ。彼は明らかに高揚していた。戦場の逢瀬に浸っているのではなく、何か怪しい欲望のようなものに突き動かされ、どこもかしこもぎらついていた。郭嘉もまた人肌にときめいたというわけではなかった。見下すばかりで今まで一度たりとも感じたことのなかった男の自尊心が、刺のようにじくじくと胸を刺していた。その愛剣よりも鋭いものを持っているくせに、徐庶はそれを今までずっと隠していたのだ。
 あなたに伝えたいことがあるんです、甘い声がそう囁いた。吐息に掠れたそれはひどく色っぽい。興奮している。ここが閨ならどれ程よかっただろうか。はにかむような控え目な笑顔が脳裏に閃いた、それこそが偽りの姿であるに違いないのだ。艶めいたこの声音で、愛を語るつもりなどありはしない。好きだから助けたかったなどといじらしく話す気はない。
「連環の計のこと。ああ、郭嘉殿ならもうご存知か。水軍相手に火を使うなら効果的でしょう。士元……ええと、俺の友人が、色々と仕組んでくれて」
 その矜持を突きつけたくて、助けたのだ。
 郭嘉は恐れていた。恐怖に震える心臓が早鐘を打った。こんな恐ろしい刃に気が付けなかったのだ。それとも気づかせなかったのだろうか、この男が。だとしたら、曹操は恐ろしいものを傍に置いてしまっていたのではないか。知っていたのと問う声は、喉の焼けたせいだけではない、みっともなく震えていた。
「はい。勿論、友人ですから、俺が危ない目に遭わないよう、手を回してもくれました」
 どうして言わなかったのだなどと、馬鹿な問いをする気も起らなかった。また崩れ落ちそうになるぼろぼろの身体を、皮肉にも徐庶がしっかりと支えていた。
「郭嘉殿、ご存じありませんでしたか。馬騰がいつ動くとも知れないし、俺はこの戦の間、そちらの警戒にあたっていたんです」
 曹操が欲しがったのだから逆らってはいけない、そんな言い訳をしている場合ではなかった。この男は新野ではあの劉備に味方していたのである。大人しく使う方がどうかしている。何故こんな相手を信頼していたのだろうか。賈クも典韋を殺したが曹操のために懸命に働いていたから認められたのである。この男はどうだろう、いつの間にか曹操の幕下にいて、いつの間にか共に戦うことになって、いつの間にか同じ軍師として、仲間として存在していた。おどおどとして、意志薄弱で、物憂げで、それこそがこの男の策略なのである。
 この男の根底にあるのは劉備への忠誠だ。これと決めた唯一の主のためだけに仕えることの喜びだ。憎い曹操に大打撃を与え、かつ劉備の元へ戻ることができる。これまでじっと耐えて、ようやく訪れるその至上の幸福に打ち震えているのだ。
「さて……もうさよならだ。だから全部言っておくよ」
 この場から逃げようにもただ耳を塞ごうにも、これ以上なく昂ぶった徐庶の力は強すぎる。これ以上は絶対にいけないとわかっていても、夜を染め上げる程の炎に焼かれた郭嘉では敵うはずがなかった。
「あなたはその才以上に、死から蘇ったことで兵たちの心を掴んでいたんだね」
 嫌でも耳に入ったよと、徐庶は心底煩わしそうに吐き捨てた。蘇りというとかなりの語弊があるが、そう思われてもおかしくない程の大病を克服したことであろう。確かに、兵士たちもよく生き残ってくださった、夢のようだなどと郭嘉のことをうわさしているから、新参の徐庶がそういう話を聞いていてもおかしくはなかった。
 袁紹と戦う間、郭嘉はずっと病に侵されていることを自覚していたし、白狼山で烏丸と見えたときにはもちろん死を覚悟していた。病魔の手が喉元にまで迫るのがはっきりと見えていて、身体はいつも這い寄る寒さに震えていた。そういう状態だったからこそ、あの行軍で袁家との因縁を冷徹に絶つことができたのだと自負している。
 だが奇跡的に病が癒えて、遠征を無事に終えると、郭嘉はおかしくなっていた。死ねなかったせいだった。そうに違いなかった。思いがけずに瀕死のところを乗り越えたせいで、この眼は深い霞に曇ったのだ。得体の知れないあの力はもう生きるために使われたのだ。思えば、あれは今際にしか見えない何かが見えていたに違いないのである。だからこうして生き永らえた今は、こんな男を少しも疑わず受け入れてしまった。
「兵士たちの気持ちも分かるような気がするよ、郭嘉殿、あなたを仙人だ道士だ、何だと言って敬うね」
 徐庶の言うように、皆からの期待がその色を変えてしまったのを郭嘉は確かに知っていたし、心の片隅では不安に思っていた。賈クが曹操の元に降ってまだ間もない頃、軍師は郭嘉様だけで十分なのにと皆が口にしてくれていた。それがうれしかったのだ、和解した今となっては賈クには申し訳ないことではあるが。信頼とは心地よい重圧だ。そのはずだった。
「それがこんな失態を!」
 唇を噛むと、それを窘めるようにして男の指が顎を擦る。無理やりぐいと顔を持ち上げて不躾な視線を寄越すと、徐庶は煤だらけだと楽しげに言った。ここに及んでまだ笑っている、恐ろしい男だ。鋭く睥睨したつもりだったが、うまくいったのかはわからなかった。彼は相変わらず朗らかに笑顔を浮かべていたし、そのよく回る舌を止めることもしなかったからだ。
「今後、命からがら生き残った彼らの態度がどうなるかなんて。類まれなる慧眼をお持ちの郭嘉殿には、もうお分かりかもしれませんね」
 あれ程の信頼は、普通の人間に寄せるには厚すぎるのだ。郭嘉の懸念はそこにあった。病を乗り越えたことも手伝い、郭嘉という軍師は兵士たちから神格化されていたと言っても決して過言ではなかった。戦勝を約束する神だ。そうなると、どんな状況からも救われて当然だと思い込むようになってしまう。その傲慢が、こんな無惨な戦果にどう歪むのか。考えるまでもない。
 徐庶は思わせぶりに唇を寄せてきた。いかにも悲しげに眉が寄せられているが、その眸に哀れみなどあるはずもない。焼けて痛む唇に触れた彼の吐息は熱く昂ぶり、嗜虐の喜びに染まっていた。苛まれるのは怖いなと嘯く。わかっているのだ、沈んでいく船と同じようにこの身に寄せられた信用も失われるということは。徐庶の放った炎に、見事に焼き尽くされてしまった。
「それで……君、こちらに来ないかい、郭嘉殿」
 思わず瞠目してしまった。間近に迫るそのまなざしは意外にも真摯で、その智謀は本当に惜しいよという声にもこちらを馬鹿にするような色はなかったからだ。徐庶はどうやら真剣らしかった。ずっとこの身体を抱えたままの左腕に強く力がこもる。見つめる眸には炎があった。長江の夜を赤く染める、あの炎が揺らめいていた。
 懐かしい感覚だ。郭嘉は曹操に求められたあの日のことを思い出していた。もうずっと遠い昔にも思えるのに、昨日のことのように思い出せる。仕官を拒むのをいっそ執念深いとすら思う程熱心に口説き落されて、結局応じてしまった。初めは戸惑っていたはずなのに、いつの間にか曹操の隣に立つのが自然なことのように思えたし、当然とすら感じていた。あれから幾度も共に戦いを重ねてきて、曹操はその度に強くなっていった。自分の力が少なからずそれに貢献しているかと思うと誇らしくて、単純にうれしかった。
 だというのに。あのとき死ねなかったのが間違いだとばかり思っていたが、そもそも曹操に仕官をするべきではなかったのではないか。郭嘉一人おらずとも、すばらしい人間に囲まれた曹操ならばきっと十分に力を蓄えていっただろう。そしてきっと、こんなところで大敗を喫することもなかったのである。
 郭嘉は溜息を吐き出した。今まで生きてきた中で、間違いなくもっとも重いそれだった。何にしろ、いまさら言ってどうにかなるものでもあるまい。どんなに聡明な士も屈強な将も、時間を巻き戻すことだけはできはしないのだ。後悔がないと言えば嘘になる。これから自分がどうなるのか、一切の恐れがないとは言い切れない。
「君ならうまくいくと思うんだ。孔明や士元には敵わずとも……俺は君を評価しているよ」
 だからといって、その手を取れるはずもなかった。ここでもし誘いに諾と頷けば、今後は蜀で生きていくことになるのだろう。しかし、曹操の軍師であったことへの咎めや偏見もなく、彼の言う通りにあの劉備に重用してもらえたとして、この男、徐庶に推挙されたという事実はどうしようもなく存在するのだ。これまでの立場とは逆転して今や優位となった徐庶のこの言動から考えて、自由などなくなるし、命を握られたも同然ではないか。
 今度こそきつく睨みをきかせると、徐庶は名残惜しげに郭嘉へ触れた両手を離し、残念だよと呟いた。確かに心底からそう思っているらしい声音ではあったが、その表情まで窺うことはできなかった。支えを失った身体がすぐさま情けなくふらつかないよう、気を張るのに精一杯だったからだ。
「君に言うことをきかせてみたかったんだけど……」
 嫌だ、そう思った。だが、不快である、それだけでは足りないものだった。男の目に炎が宿るように、郭嘉の胸にもごうと音を立てて何かが燃えたぎった。これまでに覚えのない感情だった。それに任せて口を開こうとすると、激しく咳込んでしまった。よろけそうになって慌てて両手を膝へつく。何とか耐えて、郭嘉はゆるゆると首を振った。何を吐くつもりであったのかもうわからなかったが、恐らくそれでよかったのだ。たぶん、らしくないものだし、曹操にもきっと良くは思われない。ひとつ深呼吸をして、それから口を開いた。
「徐庶殿、あなたは、変だよ」
 自分でも驚く程に掠れてひどい声だ。これも炎のせい、ひいてはこの男のせいである。それがわかっている徐庶は汚い声だねと微笑んで、それから少し困ったように肩を竦めてみせた。
「そうだな。でも今は、心が晴れたような気分だよ」
 突然肩を強く押されて、郭嘉は抵抗できずに思いきり突き飛ばされた。もともと力や体格の差があったし、立っているのがやっとであったから当然だ。痛む身体を起こして見れば、先の船は南から迫る炎に追いつかれ、ついに燃え上がろうとしていた。徐庶の明かさなかった連環のせいで、あの船も延焼を免れない。そして郭嘉が倒れ込んだこの船にもすぐに炎は燃え移ることだろう。君もできたら逃げるんだよと笑って、徐庶は言葉を続けた。
「もう迎えが来るんだ。だから、もっと簡潔な物言いをしよう。俺たちみたいな軍師といういきものはこう話が長いものだからいけないな……」
 死ぬ気なのだろうか。郭嘉はただそれを見つめることしかできなかった。まさか、ようやく曹操の元から逃れられるというのにそんなはずはない。だがあの群青をまとった男は、もう炎に包まれつつあった。そうして揺らめく赤に染まっていく姿が恐ろしかった。笑っている。その鮮やかな色彩は、郭嘉の金の目に文字通り焼き付けられてしまった。
「俺は勝った。君は俺に負けたんだ、郭嘉!」


P19〜
「曹操殿。左慈がどんなに恐ろしいものを見せ、口にしたのかわかりませんが、すべてはしょせん幻です。そんなものになど、耳を貸してはなりませんよ」
 炎の幻にすっかり囚われていた郭嘉には、口にするだけで身を引き裂くような言葉だった。幻だ、それはわかっている。きっと本当は曹操だって、幻術に驚き病むなど馬鹿らしいと考えていることだろう。だがそう簡単に割り切れるものではないのだ。心臓に直接つけられた傷が、刃となって五感を何度も執拗に突き刺すのである。ならば曹操を助けるには、荒療治しかあるまい。郭嘉は笑顔を絶やさないよう細心の注意を払いながら、手を伸ばして男の夜着を軽くはだけた。
「それよりも、どうです、生きていることを、もっと感じさせて差し上げましょうか」
 錆びついた郭嘉の頭にはそれ以外の方法がまるで浮かばなかった。死を予言する幻などより、現実の欲の方がずっと確実ですばらしいものだということを証明するのだ。曹操は、ゆっくりとこの名を呟いて目を細めた。哀れむようなそれだった。止めはしないのだから、きっとこの聡明な男は、郭嘉の心中など察しているに違いない。
「郭嘉。無理は」
「わかっていますよ、曹操殿。ですが、もしものことがあっても……このまま病で亡くなるよりは、曹操殿にはふさわしい死に方ではありませんか」
 郭嘉は懸命に明るい口調でそう言って、いたずらっぽい表情を作った。言葉後を奪ったが、曹操は無理をするなとは郭嘉に対して言っているのである。わかっていたがはぐらかした。こうすればきっと、曹操は悦びを思い出してくれる、そして郭嘉は、曹操に必要とされていると強く感じられる。これ以上なく魅力的な策であった。だが諸刃の剣だ、老いてしまった曹操がこれでもなお郭嘉の存在を受け入れてくれなければ、後はもう命を絶つしかないし、もしかすると余計なことまで明るみになっていっそうの心配をかけるはめになるかもしれない。
 今は構うものかと、郭嘉は男の股座をまさぐった。萎えて乾いた陰茎を取り出すとそっと握り込んで、痛みを与えてしまわないよう丁寧に扱いていく。まだ張りのない血管を確かめるようになぞり、親指で先端の孔を軽く擦る。濡れた感触はなかった。唇を寄せ、突き出した舌に唾液を伝わせて性器を潤していく。少しずつ手を速めていくと、じわじわ頭を擡げてくる。安堵の溜息が出た。
 以前程には勃起しないとはいえ、老い衰えてしまっても、この身体に反応を返してくれることがたまらなくうれしかった。こういう意味に限ってだが、自分はまだ必要とされているのだ。
「この老いぼれに、欲情する。おぬしも大概よな」
「だれのせいだと……思われるのです」
 曹操はまだゆっくりとだが手のひらを持ち上げて、労わるように頭を撫でてくれた。その手は先よりずっと温かかった。郭嘉は一瞬ためらったが、はにかんでそれに擦り寄った。すると猫を愛でるように今度は喉をくすぐるのだ。情交をするとき、曹操は仕官当時からずっとそうしてかわいがってくれた。そう思うと身体の芯が疼くような気がして、久しぶりに肌を重ねたい気持ちが起こったが、そこまで曹操に無理強いはできまい。あくまでも快感を思うさま享受してもらうことが目的である。奉仕の悦びを得られるだけでも、郭嘉は幸せだった。信用などどうでもいい、囲いとしてだけでも必要としてもらえれば、それでいいではないか。それで納得すればいいのだ、どうせ、もう死ぬまで隠遁するつもりなのだから。
 だというのに、結局自分がひどく傷ついただけなのだな、と郭嘉はぼんやり感じていた。そんなことを思う時点でもう取り返しがつかなくなっていた。その引き換えに曹操が生き永らえてくれたのならば、十分だった。
 曹操は曹魏に欠かせぬ人物だが、慧眼を失った郭嘉はもう特別必要ではないのだ。それを悲しいと思ってはいけないとわかっている。降将とはいえ、曹操の下にはいつの間にか新たな将士が加わっているのである。居場所がないのだから、郭嘉は退けばよいのだ。
 また胸の奥から何かが溢れそうになる。それを抑え込むために、郭嘉は口腔いっぱいに陰茎を口に含んだ。汗や排泄物のにおいの混じった独特の塩味がする。普段はえづきそうになるそれも、曹操のものだと思うとやはり愛おしかった。頭を押さえこまれずとも根元まで咥え込む。鼻先が陰毛に埋もれても、何の不快感もなかった。ただ、やはり頭の中がどうしようもなく熱くなって、必死に自我を保っていなければすぐにも男根をねだってしまいそうだった。相手がこの男であるから、なおさらだ。
「変わらず、愛いのう、おぬしは」
 郭嘉は曹操を窺い見た。優しいまなざしでこちらを見つめながら囁かれる、その一言だけで涙が溢れた。理由を聞かれても口淫が息苦しいのだと言い訳できるから、憚らずともよかった。変わってしまったに決まっている。この男の傍にいる資格もない、ただの役立たずになったのだ。もはや何もできないただの肉塊なのだ、突き込まれて啼くくらいしか能のない。

2014.05.25発行