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ひとでなしのひとごろし_1

 踏み切った右脚の、筋肉が弾けるような感覚がひどく懐かしい。徐庶はぼんやりと思った。女の身体はきれいな放物線を描きながら落ちていたが、傷が浅かったのだろうか、空中で体勢を整えてしまう。舌を打ったのと同時に鋭い音が空気を裂いた。眼前に迫るのはきらめく切っ先だ。女が手にしていた筆架叉の一振りだろう。すぐさま左脚を踏ん張り勢いを殺すと、逆手の一閃で刃を薙ぎ地へ落とす。彼女も今の一撃でこちらを沈めるつもりはないだろう、牽制に過ぎない。刃の向こうに垣間見た女は右手の三叉を突き出して構え、まっすぐこちらへ落ちて来る。落下の力を借り貫くつもりだ。飛び退ってかわしながら、短刀を放つ。女の柔らかい脇腹を抉って食い込んだ刃を軸にして、二刀を繋ぐ紐がぐるりとその細い身体に巻き付いた。糸をくいと引き寄せれば、縛り上げられた女が今度こそ地へ伏す。それを認めて、徐庶はひとつ息を吐いた。
 後は首を落とすばかりである。この先、この女は間違いなく邪魔になるだろう。馬超への私怨がその力の拠であるとはいえその腕は確かだし、曹操への忠心もある。
 この手はまた人を殺めるのだ。主の理想である仁の世のために振るう刃ならば、躊躇はない。振り上げた剣先はしかし、女の脈を捉えられなかった。
 弾幕の勢いに押され飛び退れば、今にも倒れそうな血だらけの痩躯が女の前へ躍り出る。ホウ統に任せていたはずの男だ。取り逃がしたらしいが、彼自身はどこかで倒れているわけではないから無事に撤退してくれたのだろう。
 ならば一人でまとめて始末するしかない。徐庶は静かに短刀を引き寄せ、撃剣を構えた。久しぶりに味わう独特の緊張に、神経のひとつひとつが昂ぶるようだった。策で人を陥れるのもいいが、五感のすべてを研ぎ澄まして刹那を探り奪い合う、この駆け引きは格別だ。軍師をしていてはとてもではないが味わえたものではない。それもまた徐庶にとってあまりに懐かしく、愛おしい感覚であった。
 手足の先をじりじりと焼く緊張は、女によって破られた。ぴんと張り詰めていたその気迫が揺らいだのだ。痛みに気を取られたのだろう、あの傷では仕方がなかった。未だ血は吹き出したままだし、まともに立っていられる方がどうかしている。その隙を突いて放った剣閃はしかし、またもや女を貫けなかった。遠くから打ち出された球に弾かれた剣先がぶれ、澄んだ音を立て地へ落ちる。思わずくそと汚い言葉を吐き捨てた。この不思議な武器の使い手は、間違いない。この軍を指揮しているのだからいずれ邂逅するであろうと覚悟はしていた。しかし曲者の多い魏軍において、これは特に厄介な相手だ。彼の名を呼ぶ声に溜息が混じってしまったのは、あまりに複雑な胸中であったからだった。
「ああ……郭嘉。ようやく、自らお出ましってところか」
「こんにちは、あなたも元気そうで何よりだよ。蜀の居心地はどう、この裏切り者」
 色鮮やかな珠を弾き出した打球棍の先を丁寧に拭いながら、郭嘉が緩やかに微笑んだ。
 相変わらず嫌味な程に涼やかな男だ。戦場にあるとはとても思えない颯爽とした出で立ちである。かつては病に倒れそうになったこともあったらしいが、徐庶が対峙したときにはそんな弱々しい素振りは微塵も見せなかった。僅かな手勢で一目散にやって来て、兵を一蹴してしまったのだ。郭嘉にそれ程圧倒的な武が備わっていたわけではない、むしろまともに打ち合えば必ず自分が勝つだろうと徐庶は確信している。ただあのときの彼は隙をつくのがあまりにも上手すぎたし、徐庶自身もまだ青くて、奇襲に動揺しすぎた。捕縛されてしまったのを見下ろして、侮蔑の言葉を吐き捨てた彼の笑顔。それはこの胸に深く深く刻み込まれていた。
 ゆっくりと瞬きをし、その姿を改めて脳裏へ思い描く。なんと憎たらしく、なんと艶麗なことか。徐庶はうっそりと笑みを浮かべた。彼はちょうど今のように、柔らかに嘲って、優しく微笑んでみせたのだ。
 その棘に突き刺された自分が何を感じたのかは、流石の郭嘉も想像し得なかったに違いない。それがきっと、彼の最大の過ちになるだろう。
「素晴らしいよ、劉備殿はお優しいから。とても私的なことだけど、こっちには友人も多いんだ。よかったら君も来るかい。君は頭が良いし、歓迎してもらえるはずだ」
 徐庶は冗談のようにそう口にしたが、本心でもあった。個人的な理由の方が大きかったが、もっと知恵者が欲しいというのも一応は本当だ、心底から劉備に使えてくれる者であれば。もちろん、曹操に心酔するこの男が素直に下ってくれるはずもないのは承知していた。
 想像の通りまさかと楽しげに笑んだ郭嘉が武器を構えると、傷を負った女たちは身を翻して逃げて行った。それをわざわざ追うつもりはなかったが、一歩を踏み出すと、彼が勇敢にも打球棍を突きつけてくる。
「悪いね、ここはありがちだけれど……私を倒して行ってもらおうか」
 先の二人を取り逃がしたのはうっとうしいが、この男を魏に残す方が遥かにまずい。
 赤壁での決戦は何とか呉蜀の連合軍が勝利を収めたし、ハン城での敗北が響いたのか魏の力は衰えつつある。
 しかしこういう特別優れた軍師というのはたった一人でも残っていると、自分は勿論、ホウ統や諸葛亮でも思いもよらぬ奇抜な策を使ってくる可能性がある。大げさではなく、この男の策ひとつにここから大勢をひっくり返されてもおかしくはない。だから出来るものならば、この場で何とかしておきたかった。曹操軍に属したのは僅かであったが、彼の才知を徐庶は十分すぎる程に理解している。
 彼を始末するべき理由はもうひとつあった。彼は曹操から寵愛されているのだ。最早長安は押さえたも同然だが、それに加えてこの場で郭嘉をどうにかできれば、魏軍をというよりは曹操自身を、更に大きく揺さぶることができる。今後の蜀の攻勢のためになるだろう。
 この場で捕らえてしまうのがいい。とにかくこの男を無力化してしまえばいいのだから、何も殺すことはない。そう思う自分の腹の底にある真意を徐庶はよくよく分かっていた。そのための狡い策なら、いくつだって思い浮かぶのだ。何せ自分も今や彼と同じ、軍師なのである。
 震えそうになる手にしっかと撃剣を握り、静かに彼を見据えた。郭嘉ももうここが取り返せるとは思っていないだろう、夏侯楙は死んだし、先の二人の将も重傷だ、まともな兵など残ってはいまい。怪我のひとつでも負わせればよし、時間を稼いで逃げてしまえばいいとでも思っているのか。そんなことを許してしまう気は、徐庶には微塵もなかった。
「君なら分かるだろう。あのときは不意打ちで動揺したけど……もう負けないよ」
「それはそうかもしれない、あなたは戦うことに慣れているし。でも、やらなければならないときもあるものだよ。ここは私も、本気を出そう」
 郭嘉は軽く腕を振るって自身の周囲に鮮やかな球を舞わせると、打球棍を両手で強く握り締めた。恐らく敵わないという自覚はあるのだろう。徐庶とは違い、彼は武にまでは明るくはない、だからこそああいう大胆な奇襲にも出られたのだろうが。
「いいね。ああ、君、何か得意の策でもあるのかい」
「……夏侯楙殿がやられているのに、黙って帰るわけにはいかないんだ。夏侯淵殿たちに申し訳がたたないからね」
 感情論とは珍しいと徐庶は内心で嗤った。この男にも焦りはあるのだろう。蜀の勢いは凄まじい。危うい均衡を保っているとはいえ以前の蜀では大国魏とまともに渡り合うことすらできなかっただろう。そんな相手にここまで追い詰められるのは計算外だったに違いない。
 今の魏は、あのひどく傷ついた将たちですら失えば痛手になるのだ。彼らが逃げるためにはまだまともに動ける自分が壁になり時を稼ぐしかないと郭嘉はわかっているし、自分もまた逃げられなければ殺されると理解している。そして、自分が魏からいなくなったら。最悪の場合はどうなってしまうのか、そこまで想像が出来ている。だから、決して負けられない。そういう差し迫った緊張が、強張った表情から見て取れた。武器に必死で縋り、眼差しだけがやけにぎらついている。食い縛ったあの唇は震えそうになるのを必死で隠しているのだろう。
 徐庶は思わず破顔してしまい、慌てて衣服の襟を気にした。こういう手合いは表情から色々面倒なことを感じ取ってしまいかねないから危ない。追い詰めた鼠だとはいえ噛み付くこともあるだろう。何より、情けなく緩んだこの顔を彼に見られたくなかった。
 腰を深く落とし、踏ん張る両足に思い切り力を込める。筋肉がずくと疼き膨れ上がる。それをばねにして、徐庶は真っ直ぐに飛び出した。放たれた矢のように加速する勢いを乗せ振り下ろした剣先は、それを受け止めた郭嘉の打球棍をたやすくぶった切る。流石の彼も息を呑み瞠目した。力の依代を失い、旋回していた球が弾けて消えていく。これでもう逃げられまい。首筋を狙い振りかぶる剣先は、真っ二つになった棍に弾かれた。投げつけられたそれを、苛立ちに任せ散り散りに刻む。今度こそと上段に構えた剣を振り下ろしたが、僅かに金糸を掠めただけであった。
 咄嗟に屈んで一閃を避けた郭嘉は、滑り込むようにして股の間を潜り抜けて行った。背を取られる、思ったときには遅い。後ろからぶつかるようにして抱き付かれた。その手にあるのは、先の女が手放した筆架叉だ。冷たい切っ先が、僅かに触れる。細い両腕とはいえ抱き込まれて剣を突きつけられては、身動きがとれない。絶体絶命だと、かつての徐庶なら絶望しただろう。だが今は、荒い吐息が首筋へ吹きかけられるのが心地よいだけだけである。徐庶は喉を鳴らすようにして低く笑った。
「思っていたよりも筋がいいんだな郭嘉、こうも押されるとは思わなかったよ」
「そう。この手のことでは、あまり褒められないから、少しうれしいかな」
 荒い息の中、郭嘉がそうして笑った。彼がもう少し愚かであれば躊躇なく突き刺していたに違いない。だがこの男はとにかく頭が回る、きっと自分を捕らえ、内情を吐かせるつもりであったのだ。だから加減をしてしまった。焦りは人の判断を狂わせてしまう。無意識の隙が生まれてしまう。
 郭嘉の場合は無理もない、前線に立つことがなかったとは言わないが、やはり曹操に大事にされすぎたのだ。策を弄するばかりでなく、不思議な武器に頼るばかりでなく、もっと直に、間近で、剣の散らす火花を見ておくべきだった。
 徐庶は剣を捨てて軽く手を上げた。丸腰になり、抵抗する意思はないと伝える。彼がふっと息を吐き出した、恐らくは安堵の吐息であった。これだから甘いのだ。
 左肘を引き腹に一撃を食らわせると、郭嘉は呻き姿勢を崩した。接近戦には慣れていないのだから、こういう不意打ちにはめっぽう弱い。それでもすぐさま筆架叉を構えようとする心意気だけは素晴らしいが、やはり遅かった。剣の柄を蹴り上げ、宙を舞った短刀を素早く放る。気を取られた一瞬で肉薄し、脚を払って地へ押し倒した。左腕へ全体重をかけて胸を押さえつけてしまえば抵抗もできまい。
 振り上げた撃剣の切っ先が郭嘉の左手のひらを正確に捉えた。肉を裂き石の床を砕き、剣は地へと突き刺さる。悲鳴は上がらなかった。一瞬だけ瞠目して、後は歯を食い縛るばかりであった。だがその表情の変化に、確かに苦痛はある。
 徐庶の全身は焼けるように熱く昂ぶった。郭嘉の白い左手からじわじわと美しい朱色が広がっていくのが窺えた。鼓動に合わせて血が溢れるのは痛みと共に感じているであろうに、その眸は未だ光を失わない。それどころか強かに睨みつけられてしまって思わず震えた、もちろん恐怖を覚えたからではなかった。
「郭嘉……もう、諦めてくれ」
「策なら、あったっ!」
 何を今さらとの言葉は呻きに消えた。股間を膝で思い切り蹴り上げられたのだ。思いがけない一撃に徐庶は声にならない悲鳴をあげ、転がり回って悶絶した。同じ男がそこを狙って来るとは露も思わず、完全に油断していた。
「ああ、ごめんね。ひどいことをされそうになったら、こうするようにとの言いつけなんだ。痛かったかな。不能になったら……うん、諦めてくれ」
 口調を真似て嘯いて、でもされそうどころではないしと郭嘉は笑った。引きつった笑顔だった。この隙に手のひらを貫いた剣を抜こうとしているらしいが、痛みでまともに力が入らないらしい。どうせあれを抜くことはできないだろう。徐庶は情けなく四つん這いになりながらも何とか立ち上がると、牽制に放った短刀をゆっくりと拾い上げた。
「うう、流石に驚いたよ……同じことをしてもつまらないな、俺も一応、今は軍師なんだ」
 撃剣の柄へ足を掛け体重をかける。傷が広がり、郭嘉が苦しげに呻いた、その声すら美しい。先に自分を皮肉ったくせに、今はこうして呻くしかないのだ、これを愛おしく思わないはずがなかった。そして血が溢れ、次第に顔が歪んでいく。ただでさえ病的な色のあった白皙はすっかり青く変わっていた、その顔ですらも色気がある。
 徐庶は知らず生唾を飲み込んだ。蹴られたせいで萎えるなどということはなかった、むしろ一層高揚していた。
 郭嘉は勇敢に武を奮ってきたわけではない、こうしてひどい傷を負わされたことなどないだろう。きっとこの薄い胸は恐怖でいっぱいになっている。それでも眸だけは剣のように鋭い色をして睨みつけてくる。
「君にも一緒に来てもらう」
「劉備のところなんか! 絶対に、いや」
 徐庶の胸はまるで初夜を迎えた生娘のように高鳴った。手足の先に生まれた震えが全身に伝播して、視界までも熱く揺らした。涙が零れそうだった。彼は未だ諦めていないのだ。だから精一杯声を張り上げられる。だからこうまで厳しく睨みつけることができる。この美しい男を、曹操が寵愛するのも仕方がないと心底思った。
「そこまで曹操に肩入れするなんて。先の見通せない軍師だな」
 こちらを射抜く眼がさらに鋭くなる。彼も以前、徐庶を同じように侮辱したのを覚えていたらしい。曹操殿を。呟く声は、彼のものとは思えない程に低く恐ろしい響きを持っていた。
「曹操殿を、悪く言うんじゃない」
「……意外だな、君にもそういう類の感情があったのか」
 背筋を震わせたのは恐怖だろうか、徐庶には分からなかった。だが、もう郭嘉は逃げられないのだ。恐れる必要はなかった。細い身体へ馬乗りになって、見下す眸は相変わらずこちらを睨んでいたが、それだけだった。
「いつも笑って薄気味悪いと思っていたんだ。少し安心したよ」
「なら、笑ってあげようか。あなたの好きなだけ」
 そう強気に言ってみせたが、浮かんだ笑みは普段のあの穏やかなものとは似ても似つかなかった。恐怖や痛みに強張っていたし、何よりこちらへの殺意がありすぎる。やはり、どうやっても穏便には済ませられないだろう。
「仕方ないな。少しだけ乱暴をするけど、許してくれないか」
「おや、これが、そうじゃないと言うのかな」
 ここで止めてとしおらしく言えば許してやれたはずなのだ。こうなると彼ももう愚かだ、色男を気取っているくせに、ちっとも真実には気付かない。思わず零した溜息は驚く程に熱かった。頭がどうにかなりそうだった。手が勝手に急くのを必死に抑えて、剣を繋ぐ紐を丁寧に郭嘉の首へと巻き付けてやる。それをゆっくりと締め上げた。喉の柔らかな隆起を真っ二つに捻り切るように、じわじわ糸を引いていく。
 それでも郭嘉はまだ諦めたわけではなく、抵抗しようと必死になっている。顎を押しのけようとする手にすらもう大した力はない。何をしても傷が広がるだけだというのに左手まで懸命にもがいていた。悲鳴になり損なった、引きつる音が愛おしい。
 もうその声はまともには聞こえないが、唇が縋るように紡いだ言葉は間違いなく、あの男の名前であった。閉じたまぶたから、涙の粒がひとつ零れていった。何かひどくおぞましい色をしていた。
 しかし、そうまでして嫌がる郭嘉を縛り、自分が握り締める赤い紐は、まるで獣を律する首輪のようではないか。ついに徐庶は視界が真っ白に弾けたような錯覚に陥った。実際に、股座にははしたなくも濡れた感触があった。計り知れない充足にああと呻いた吐息が白い頬へ吹きかかる。苦しげに寄った眉の皺が消え、がくりと首が垂れ落ちた。
 

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2013.04.20