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ひとでなしのひとごろし_2

 香草に包んで焼いた鳥肉のかおりが香ばしく、食欲をそそる。直と起きるだろうと思い用意させたのだが、少し早すぎただろうか、冷めてしまっては申し訳ない。どうせならば最高の状態で食べてもらいたいものだ。食事を共にしながら、一体何を話そうか、考えるだけで嬉しくなって、そわそわしてしまう。
 褒美として与えられた新しい邸へ彼を連れて来たのは、この長安ならば勝手が分かるだろうし、下手に蜀へ連れ帰るよりずっといいと思ったからだ。何より徐庶自身も、請われればすぐに魏征伐へ動くことが出来る。
 見つめる彼の顔はひどく穏やかだった。牀に仰向けたままぴくりとも動かないから、先に料理を運んできた馴染みの女官たちにはまた死体でも愛でているのかと疑われていてもおかしくないだろう。だが耳を寄せれば微かに吐息の音がするし、その頬はほうとばら色に染まり、確かな熱がある。徐庶は深く溜息を吐き出した。やはり、これは愛玩されても仕方がないのだ。白く美しい肌には汚れや傷の痕ひとつすらもなく、唇をなぞると弾けるように瑞々しい感触を返してくる。寝台に散る金糸が炎に照らされきらめくのを眩しく思う。色男というものは、女のように見目を気にして手入れしているのだろうか。己の顔へ手をやれば、無精ひげがちくと刺さるばかりであった。
 その美しさに見惚れていると、ふと白いまぶたが動いた。目覚めるのだろうか、徐庶は慌てて両手を膝の上で握り、固唾を飲んで彼を見つめた。鼻にかかったような甘い吐息が零れ、長いまつげがそっと揺れる。柔らかな金色の眸と視線が合った。焦点のぼやけたそれが数回瞬きをしてこの顔を捉えたかと思うと、掠れた声が紡がれる。見たものをそのまま口にする子供のような無垢なしぐさで、徐庶殿、と彼が囁く。それにおはようと返す顔がだらしなく綻んでしまうのを徐庶は抑えられなかった。
 これではまるで恋人同士だ。散々にまぐわった後共に眠りに落ちてしまったような、穏やかな幸福感が胸をいっぱいにした。緩く垂れた目尻が格別に艶っぽく、そういう雰囲気を醸し出して良い。
 しかし、当然そのような状況ではない。郭嘉は意識がはっきりとしたのかふと目を見開くと、慌てて身体を起こし恐らくはその場から逃げ出そうとした。それが失敗に終わってしまったのは、がくりと左腕が崩れたからだ。薬を塗り包帯を巻いてあるとはいえ、あの傷だ。再び倒れ込んだ身体に、慌てて声をかける。
「郭嘉、あまり動かさない方が良い。まだすっかり治ったわけではないんだ」
「あなたは……いったい、何を考えているのかな」
 鋭い視線がこちらを睨めつけた。怪我を負わせたのもお前だろうと言いたげであった。徐庶は頬を掻き掻き、あのだのええとだの繰り返すしかない。何かに突き動かされるようなあの衝動を、どう説明すればいいものか。
 郭嘉は欲だけに従い生きているふうを装って、その実かなり冷徹だ。主曹操とまで関係を持つくらいだから色事に耽るのは確かに好きらしいが、そればかり考えてふらふらしているわけでもない、と徐庶は考えている。色も酒も好むが、それより何より頭を使い戦を描くことが好きなのだろう。すっかり一線を画しているとまでは言い難いが、少なくとも己の欲を戦場にまで持ち込んで馬鹿をすることはない。そこが自分と最も違うところだ。
「ああ……そうか、そうだな、わざわざこんなことをしなくても、あの場で殺すのも簡単だったのに……」
 むしろその方が都合はよかった。こうして料理など用意して養ってやる必要はなくなるし、自分もすぐに次の戦へ向かえたはずだ。今頃はまだ年若い将たちが、許昌を落とすべく進軍しているだろう。あの子らに何かがあると劉備らに申し訳が立たないし、蜀軍全体の士気にも関わる。先に捕らえた諸葛亮の気に入りらしい将がついているし、ホウ統も兵をまとめて出立したとの報せがあったから心配はないとは思うが、自分も従軍できるのが理想であった。
 とはいえ仕方がない。いよいよ殺されるのかと思い、震える声で何をする気かと問うてくる姿は、やはりあまりにもいじらしいのだ。切り刻むにはもったいない。
「大丈夫だよ。ほら、郭嘉、腹が減っただろうと思って、食事を持って来たんだ」
 恐る恐るといった様子でこちらから視線を外して、皿の方を窺い見る。毒を盛られていないかと不安なのだろう。徐庶は自ら肉を千切って口にした。しっかり噛んで、わざとごくりと大きな音を立てて呑み込む。少し冷たくなってはいたが、まだ十分にうまいはずだ。
「……わかったよ、いただこう」
 警戒心は和らいだのだろう、郭嘉は諦めたような声音であったがそう口にして、料理へ手を伸ばしてきた。その指が届かぬうちに、ひょいと皿を取り上げる。怪訝な視線によかったと明るく笑いかけて、徐庶は再び肉を口に含んだ。わざと音を立てて咀嚼をして軽く口を開け、手招きをする。その意図を察して、彼はこれ以上なく不快そうにその眸を歪ませた。嫌悪でいっぱいになった眦はいつもに増して危うい艶がある。
 やはりこうしてさまざまな表情を見られるのは嬉しいものだ。彼は人を罵ったあのときですら笑みを浮かべていた。曹操の下にいたときにも美しい笑顔しか目にしていない、それがこうして露骨に蔑んでくれる。そんな目で睨まれては堪らないのにと、内心で苦笑した。
 左手に体重をかけてしまわないように気をつけて身体を起こすと、彼は寝台からそっと身を乗り出した。気持ちが悪いと詰ってくれるものだとばかり思っていたので、その唇が触れ合ってしまったことに徐庶は面食らった。躊躇なく差し込まれた舌が、噛み砕いた肉を浚うようにして口腔を隅々まで探っていく。すべてを自分の口へ収めてしまうと、郭嘉は逃げるように唇を離した。
 指で触れて知っていたが、本当に艶やかな唇だ。徐庶は惚けてしまって、どちらのものかもわからない唾液に濡れたその口元をじっと見つめていた。彼はきつく目を瞑っていたから、この視線には気付かなかっただろう。咀嚼された肉を黙ってごくりと飲み込む。喉の隆起が上下する。嫌そうに呻いている今も、あれは彼の食道を滑り落ちていくのだ。こうなってはどれ程気持ちが悪くてもえずきでもしない限り止められない。この口内にあったものを、郭嘉がすっかり嚥下してしまった。声が情けなく上擦っても仕方はなかった。
「た、食べてくれるだなんて! まさか、そんなこと思わなかったよ、嬉しいな。うまいだろう?」
「ここまでまずいものを食べたのは、生まれてはじめてだよ。もしかして、蜀ではこんなものがおいしいと言われているのかな」
 袖口で乱暴に唇を拭うと、郭嘉は不機嫌な顔をしてつんとそっぽを向いてしまった。
「私は、まだ死ぬわけにはいかないんだ。こんなことならいっそう、食事なんていらないのだけれど……」
 余程屈辱なのだろう、こうなってはしかたないねと自身へ言い聞かせる声は鬼気迫っていた。徐庶は天を仰ぎ、ほうと溜息を吐き出す。なんと潔い男だろうか、主君のためには自らの誇りなどどうでもよいと言うのだ。そしてこの男は、まだ逃げられる気でいる。曹操の元へ戻ることができると信じている。
 彼のことだ、もしかすると何かしらの策があるのかもしれない。だが徐庶は、それをすべて下してやる気でいた。逃がしてやる気などさらさらなかった。
 徐庶がおらずとも劉備ら蜀軍は十分に戦えるが、魏は違う、郭嘉がいないとまともに戦えない。徐庶が思うに、曹操が郭嘉を神聖視しているに違いないからだ。自分に勝利をもたらす絶対の存在、揺るがない導き手であると認識している。確かに郭嘉は不思議な男だ。あまりに美しく聡明だし、先の見えすぎるおかしな眼を持っている。曹操が密かに感じているようにやはり、彼は本当は人間などではないのかもしれない。兵たちはもちろん、自分もそうであると信じていた。それ程までに彼は完璧であった。
 今思えば、なんと馬鹿馬鹿しい。徐庶は笑った。曹操はまるで知らないに違いないが、嫌悪に満ちて歪んだああした顔もするのだから、郭嘉は間違いなく人間だ。どれ程優れて美しく賢かろうと、それは疑いようがない。こんな自分と同様に汚い感情も持ち合わせる、ただの賢しい軍師だ。
「郭嘉。君、水も飲むかい」
 答は聞くまでもなかった。死にたくないと言うのならば飲まずにはいられないだろう。徐庶は水差しを手にすると、彼の身体へ圧し掛かった。嫌がる顔を無理にこちらへ向け、僅かに開いた唇の隙間へ直接水を流し込んでやる。諦めたようにまぶたを伏せ水を飲んでいた郭嘉だが、やがて眉根に深くしわを刻んでもがき始めた。飲み下すのが間に合わず息ができないのだろう、身を捩って、何とか逃れようと必死だ。構わず水差しを傾けてやる。
 高揚していく気持ちを抑えられなかった。余裕の笑みを浮かべて罵る姿、冷たい氷を孕んだ眼で笑む姿、思わず不快感を露わにしてしまう姿。それが脳裏に次々と閃き、下腹に熱が灯った。陰茎がぐっと頭をもたげた。もしもこれを知られてしまったら、何と言われ笑われてしまうのだろうか。勃起した性器へ触れる彼のまぼろしは相変わらずの笑顔だ。美しい笑みを張り付けたままの男が、気持ち悪い、変態と罵っている。その口へ白濁をぶちまけてしまうと、ほうと熱い溜息が零れた。
「んぶ、ぅ、ぐ」
 ごぽと嫌な音がしたせいで意識が戻ってくる。彼の口からは水が溢れ、顔中を濡らしていた。あまりやりすぎてもよくない、嫌われてしまう。水差しを離してやると激しく咳き込んだ。唾液が混じって粘性のついた水が喉奥から落ち、寝台を濡らしていく。彼は濡れた口元を拭い鼻を啜り、必死で呼吸をしている。それをにこやかに見つめながら、徐庶は水差しを撫でた。これが生きものとして当然の反応とはいえ、先程まで想像の中で笑みを浮かべていた男が無様に苦しがっているのは、得も言われぬ興奮がある。
「そんなに零してしまって。今度はきちんと飲むんだよ」
 逃げられないようしっかりと細い身体の上へ腰を下ろし、右手で口をこじ開けてやる。整然と並んだ真っ白な歯の奥で、赤い舌が竦み上がった。
「や、やめへ」
 口に指を突っ込まれているせいで情けない声だった。揺れる金の眼が明らかに怯えていた。これがあの郭嘉だとは、到底信じられるものではなかった。
 戦場で死線にあっても平然としているこの男だが、ちゃんとした恐怖心はあるのだ。徐庶にはこれ以上ない大きな発見だった。思った通り、やはり彼は間違いなく人間だ。笑顔の仮面は分厚すぎたが、こうして剥き出しにしてしまうとあまりにあっけない。誰かが大事に守ってやらなければいつ失われるとも知れないこの儚さを、曹操はしっかりと見抜いていたに違いなかった。何があっても庇護してくれる存在だったから、郭嘉は曹操にあれ程までに懐いていたのだろう。
 徐庶は自問した。曹操は彼を愛して守っていたが、自分はどうする気だろうか。
 魏にいた頃、特別深く郭嘉と付き合ったというわけではない。むしろ高嶺の花であるような気さえして避けていたように思う。郭嘉は曹操の物であることは間違いなかったし、徐庶が声をかけるにはあまりにも遠い存在だった。直接話をしたことなど数える程もない。先の戦でようやく、戦場特有のにおいに気が昂ぶってかまともに話ができたのだ。何にしろ自分は裏切り者である、憎まれこそすれ、好かれているはずはない。それはもちろん分かっている。
 こうして捕らえてしまった以上、彼の全てを自分が自由にしてもいいのだから、もっと話がしてみたい。そう考えていたはずだ。気後れしてできなかった分、話しをして議論をして、友誼を深めてみたかった。そしてあわよくば。
 一体、何をしてしまっているのだろう。憧れを抱いていた。曹操に当然のように寄り添う彼の姿を見て、もし自分がそうしてもらえたのならと想像した。彼らの睦言を盗み聞いただけでとんでもない悪さをしたような気になって、自己嫌悪に陥りながら何度も右手を汚した。そうして妄想に耽るくらいには愛おしい。思えばそれは、もしかすると恋なのかもしれなかった。
 手が震えた。かしゃんと嫌に澄んだ音がしたのは、取り落した水差しが割れてしまったからだ。残りも少ない水がそれでも飛び散り、砕けた破片がそこらじゅうに散らばっている。徐庶は顔を覆った。
「ああ、ええと、ご、ごめん。郭嘉、こんな、でも……」
 恋だなんてそれこそ妄言だ。そんな可愛らしい言葉では収まり切らない下劣極まりない欲が自分にはある。触れたところを裂いてしまうような鋭い切っ先を持つ、これは恐ろしい感情だ。
 少しだけでいいから話をしたい、一目だけでいいからこちらを見て欲しい、そういう控えめな欲求しか持たないのが自分という人間だと、徐庶はずっと思い込んでいた。郭嘉という、自分では到底かなわない人間ではない高貴な何かが、蔑みだとしても声をかけてくれて、笑ってくれるのが嬉しかった。そう思い込んで、考えたことすらなかったのだ。もしかするとそうして目を逸らしていただけなのかもしれない。あの眼が好きだ、あの笑い声が好きだ、だから何を言われても嬉しいのだ。そう言い聞かせて、本当の自分の心を抑え込んでいたのかもしれない。
「徐庶、あなたは、何でこんなこと……」
 未だ怯えを孕んだ眼がこちらを窺った。曹操が郭嘉を愛でてばかりいたのなら、こういう表情はきっと自分しか見たことがないのだ。雷に打たれたように全身に痺れが走った。だからやはり俺は駄目なんだ、徐庶は自分を恥じて責めた。
 人間よりも貴い存在だと信じ込んでいた相手を、ただの人間、それ以下にまで突き落としてやったのだ。食事も水も自分の意志ではまともに取れない、自分がこの手で管理してやらなければ生きることも許されない。あの郭嘉がだ。彼の右手を指を絡めるようにして握ってやる。戸惑い震えるのが伝わった。
「はあ、どうしよう、郭嘉……駄目だ、俺、もう抑えられそうにないよ」
 口付けは勢い余って、かつんと歯がぶつかってしまう。それも気にならない程に興奮していた。唇はやはり柔らかで甘い。性急な手つきで胸をはだけると、郭嘉は一瞬瞠目してしかし、すぐに挑戦的な笑みを浮かべた。強気な態度で自分を鼓舞しようというのか、いつものそれより吊り上った口端が意地悪で、ひどく色っぽい。やはりこういう手口には慣れているのだ、踏んでいる場数が違う。
「この私に、色事で脅しをかけようという気なのかな。ずいぶんと自信があるようだね」
 この眼と、この声だ。震える程気持ちがよかった。途方もない高揚だ。だが徐庶は気付いてしまった、こんなふうに蔑まれることに快感を覚えていたわけではない。こういう郭嘉の矜持をへし折って、ずたずたに切り刻んでとことんまで砕いて粉々に磨り潰して、ぶち壊してやる、そういう少しだけ過激な妄想に、一人密かに耽けるのが良い。自分でも気づかないような胸の奥底で、そうして踏みにじってやるのが快い。そうしてやっと快楽を得る。そういう精神の持ち主であると、徐庶はここに至ってようやく自覚した。
「ああ……もっと言ってくれ。だって相手はこの俺だ、まさか君が、曹操と毎夜馬鹿みたいに姦淫していた君が、こんなやり方に屈するはずはないんだ……」
 郭嘉は僅かに唇を噛んだ。曹操との関係を貶されたのが許せなかったのだろう、思った以上に単純だ。恋は盲目となるものである、徐庶は苦笑した、自分に彼を笑う資格はない。
 怪我を負った左手が緩慢ながら目的を持って動くのに気付いていたが、止めなかった。手の甲で股間へ触れて、これ見よがしに嘲ってくる。
「これ、役立たずにはならなかったのか、残念」
「郭嘉……駄目だよ、そんなことをしては」
 溜息まじりに言えば、どうしてと楽しげに笑って、小刻みに手を揺する。力が入らないために大した刺激ではなかったが、彼の白い手が、先に貫き血だらけになっていたあの手が、そこに触れていると思うと堪らなかった。その不自然な穴へ突っ込んでやれたらどんなにいいだろうとも思ったが、曹操の玩具を直接弄ってやる方がずっと楽しそうだと思いやめてしまった。代わりその手へ擦りつけるように腰をかくかくと揺らせば、その美しい顔が再び歪んだ。
「下品だね……まるで犬のようだよ」
「ああ、そういうことなら、君はこれから犬に犯されるんだな。かわいそうに」
 つんと顎を上げて不機嫌にこちらを見下す彼へ、軽く微笑みかけてやる。思いがけない揚げ足を取られて言い淀む表情を目に焼き付け、胸元へと顔を寄せた。心臓の音がうるさい。自分の鼓動が激しいのだとばかり思っていたが、耳を澄ませば彼のそれもまた激しく脈打っていた。相手の性別も顔も何も構わないような様子でふらふらして曹操の夜伽をして、経験だけは豊富にあるだろうに、どうやら緊張しているらしい。徐庶はもう笑いが止まらなかった。破顔するのを見られたくなかったので、胸へ顔を押し付けた。乳輪を舐り、乳首を唇で食んでやる。ひくと身体が震えて、慌てた様子で左手を口元へ添えた。厳密な回数など知ったことではないが、毎晩遊んでいれば仕方もないだろう。すぐに固く芯を持ったそこを口の中で転がせば、郭嘉は悔しげに目を伏せた。
「声なら気にしなくてもいい。郭嘉、曹操とするときはそうじゃなかっただろう?」
「わ、私も、愛想はいい方だと思うのだけれど。へたな相手では、どうしても……ね」
 背にぞくりとした震えが走って、徐庶は吐息がさらに熱を持ったのを自覚した。僅かな刺激だけ与えられて、放り出された陰茎がじくじくと疼く。敵の策だけでなく人の心まで見抜けるのではと噂される程であった慧眼も快楽には鈍るらしい。
「そんなことより、聞いていたなんて……この変態」
「はは、どっちがだい。部屋の外へ聞こえるような声で喘ぐ方がどうかしているよ」
 指を絡めたままの右手が抗議するように甲へと爪を立てた。痛い痛いと軽く笑って往なすが、分をわきまえさせることも必要だ。乳首をがりと噛むと、郭嘉はその刺激を逃がそうともがいて、頬を寝台へ擦り付けた。
「っん! く、ふ……」
 意地でも声は出さない気らしい。こうなると徐庶もむきになってしまう。動くなよと一応念を押し、香油を取りに立つ。食事と共に持って来て近くへ置いてあるとはいえ、隙をついて逃げる気ならば郭嘉にとってこれは好機だ。這ってでも逃げていくだろうと思っていたのだが、意外なことに身動きすらもしなかった。もう諦めたのだろうか、一瞬落胆してしまったが、覗き込んだ眸は未だ気丈にこちらを睨んでくる。
「そんな目をするなら逃げればよかっただろう。どうしたんだい」
「あなたが、どんなふうに人を抱くのか気になって。顔も冴えないし、人の情事を盗み聞くような陰険だ、だいたい想像はつくけれど」
 徐庶は苦笑しながら、投げ出されたままの脚の間へ腰を下ろした。膝の裏へ手をかけて持ち上げ尻を晒すような格好にしてやれば、頬にさっと朱が走る。元から青白い肌であるおかげで分かりやすかった。慣れているわりには初心な反応だが、こういうところが曹操の気に召したのだろうか。そんなことをぼんやりと考えながら、下衣を膝まで脱がしてしまう。露わになった後孔へ香油を垂らすと、小さく息を呑むような音がした。
 膝が腹へつく程腰を折ってやり、片腕でそれを押さえこむ。彼が苦しげに呻くその声だけで、既に勃起しきった性器が弾けてしまいそうだった。このまま挿入してしまってもいいだろうかとも思ったが、裂けてしまって今後使い物にならなくなったら嫌だし、流血沙汰になっても面倒だ。徐庶は気持ちを落ち着かせようと軽く唇を舐めた。驚く程に乾いてかさついていた。
 後孔の周りの皺を引き延ばすようになぞりながら、油を塗り広げていく。郭嘉はどこかぼんやりとした様子で天井を見つめていた。刺激を受け流そうとしているのか気を静めようとしているのか、それとも何かしら考えごとをして、策でも練っているのか。それは定かではないが、特に嫌がるような素振りはない。行為自体には慣れているからだろうか、それとも本当に自分が下手だからか。徐庶は何となく気落ちした。後者ならそうだと罵ってもらえないと、どうにも気分が盛り上がらない。
「ん、うぅ……」
 窄まりへ触れると、郭嘉は小さく身じろぎした。香油をたっぷりとまとわせた指は、思った以上に簡単にそこへ挿入できてしまう。いくら何でも遊び過ぎだと困惑した。口では馬鹿にして嫌がるくせに、中指の付け根までずるりと呑み込んでおいて僅かに身体を揺らすだけだなんて、こちらで情を交じらせることに慣れているにも程がある。何という淫乱だ。そう内心で呆れるだけで、声にしてやらなかったのは一体何故だか、よく分からなかった。肯定されるのが怖かったのかもしれない。曹操と枕を重ねるさまなど何度垣間見たか数えきれないし、漏れ聞こえるその艶めいた声で何度自分を慰めたかも分からない。
 そうだというのに、この期に及んでまで、愚かしいまでに一途に、郭嘉の身体が清らであると徐庶は信じ込んでいたのだ。不埒極まりない言動はともかく、その美しい容貌は涼やかで儚く、夜には主に抱かれ乱れるなど、到底想像できるものではなかったからかもしれない。そして何より、賢く強かな彼にこそ憧れていたからかもしれない。そう気付いて愕然とした、実際に彼に触れることで、あの男の存在が強く意識されて恐ろしくなった。この身体はあの男にすっかり開かれてしまっている。そういえば気を失う直前、縋るように口にしたのもその名であった。曹操が郭嘉を失えば戦えないように、きっと郭嘉もまた曹操から離れられない。
 恐る恐る指を動かしてみると油が濡れた音を立てた。隙間からとろとろと零れるそれを再び注ぎ込むようにして指を増やしてみても、やはり制止の声も何もあがらなかった。中で指を開くと後孔が広がって、赤い粘膜が窺える。ここも何度、あの男を受け入れたのかわからないのだ。苛立ちに任せて中を弄り、ようやく見つけたしこりに指を掠めると、郭嘉は一瞬だけ顔をこわばらせた。しかしそれだけだ、ここかと意地悪に囁いてみても、怯えることも挑むようにこちらを睨むこともない。それが余計に気に障った。いよいよ郭嘉もこちらの本質を見抜いてしまったのかもしれなかった。やけになって、三本揃えた指を曲げて引っ掻くようにそこを刺激する。流石にこたえたのか、郭嘉はしなやかに背を反らせた。
「あぁっ、あ……っん、そこ、は」
 こうした反応ですらも、曹操に仕込まれたものに違いなかった。どこにもつけ入る隙などない。特に自分のような人間では一縷の望みすらもないだろう。徐庶は絶望した。こうして捕らえようと、その命を握ろうと、郭嘉にはまるで関係ない。命の危険に晒されればきっと、などという甘い考えは脆くも打ち砕かれたのだ。自分が曹操の存在を越えられなければ何の意味もないのである。できるはずはなかった。そんなことができたのならば、曹操の軍から逃げ出して、劉備に泣きつくこともなかった。郭嘉を遠くから眺めるだけでは終わらなかっただろう。僅かな可能性にかける、まともに挑んで潔く散る、そういう勇気は、徐庶にはなかったのだ。だからこそこんなふうに卑劣な手を取るしかなかった。
 ずるりと指を引き抜くと、濡れた糸が窄まりと指先を繋ぐ。触れてもいない性器は勃起して先走りを零し、後孔は口を閉じることもなく挿入を待ち望むかのように震えていた。この男は馬鹿だ。徐庶は必死でそう思った。曹操に抱かれる気になって媚びる馬鹿だ。そう思わなければいられなかった。下衣を下しながら、郭嘉の顔を覗き込む。焦点こそこちらの顔へ結ぶものの、そこへ映る像をきちんと脳へ伝達しているかはあやしい。やはり、この顔へ曹操の像を張り付けているのかもしれない。動悸がした。郭嘉の中の、曹操と同じ位置にありたいと憧れる気持ちはある。だからこそこんなことをしているのだ。だが、曹操と同じにはなりたくはない、代わりとして見られたくなどない。彼の中にだけは、どうか絶対の存在として、君臨してみたかっただけだ。
 徐庶は歯を食い縛った。ぽっかりと口を開けたそこへ陰茎を宛がうと、郭嘉がそっと目を閉じる。そうして、想像に逃げることなど許せるはずがない。細い身体を覆うようにして圧し掛かり、腰を進めた。誘うようにひくついていたくせに、十分に慣らしたはずの中が締め付けてくる。ぴったりと閉じた腸壁をこじ開けるように無理に一気に奥まで挿入すると、郭嘉は目を見開いた。ぱっと散った涙がろうそくの火できらめいて美しかった。
「は……ははっ。はいった、ああ、郭嘉、こんなに奥まで……」
 陶然として呟く。だがその興奮に浸る暇は徐庶には残されていなかった。蕩けそうに熱い中を味わいたい気持ちはあったが、そうして郭嘉が落ち着くまで待ってやりたくなどなかった。そういう優しさはきっとあの男と同じだ。すぐさま腰を引く。入り口に亀頭だけをひっかけてずるりと性器を抜き出すと、郭嘉が焦って手を突き出し制止してきた。それに口付け、一層体重をかけ身体を密着させる。
「あぁ、ま、まって……私、まだ、あ、あぁ、んっ」
 一息に奥を貫くと、郭嘉は頤を突き上げ仰け反った。曹操にはし得なかったであろう乱暴さで、曹操にはできなかったであろう容赦のなさで、曹操には考えもつかなかったであろう惨さで、ひたすらに腰を揺すれば、涙目がようやく確かにこの顔を捉える。やはり情交とはこうでなくては。一際強く腰を打ち付けると、陰嚢が尻にぶつかりぱんと淫猥な音が響く。郭嘉の声やいやらしい水音、この情けない音、何もかもがひとつになって頭の中にこだました。
「うあぁっ、あっ、あ、だめ、徐庶、お、おねがい……!」
 みっともなく射精しなかったのは奇跡に近かった。後孔を押し広げるように両手で尻を鷲掴み、ゆっくりと腰を引き大きく打ち付ける。腰を動かす度に結合部が濡れた音を生む。彼と自分とが情を交わしている、あまりにも単純で確実な感覚だ。脳を揺らす波にさらわれて、徐庶は天を仰いで喘ぐ。
「ああ……分かればいいんだ……」
「な、何を、言って、っん、あ、あぁっ」
 彼はこういう乱暴なやり方には慣れていないに違いない。徐庶はそれこそ犬のように浅く荒い息を吐きながら、涙に潤む金の眼を見下ろし思う。きっとふらりと枕を共にする男相手などにも自分から跨って、優位にことを進めてばかりだったのだ。曹操がこの男にひどい仕打ちをするはずはもちろんない。何かこの浮気な男のそれらしい初めてを奪ったような気がして、気分がよかった。こういう経験がないから、その苦しげな声が名を呼ぶことがどれ程この暗い火を煽ることになるのか分かっていないのだ。そして彼自身はこんな異常な性欲の持ち主でもない。きっと想像もつかないだろう。
 入り口は相変わらずきついが、中はその熱に蕩けて柔らかく解れていた。性器を抜こうと動けば拒むように締め付ける。それに構わず腰を引くと、ずるずると這い出るのに吸い付くようにして腸壁がうごめく。陰茎が溶けてしまいそうな感覚に徐庶は震えた。頭の芯までぐずぐずになって、気持ちが良い。
「郭嘉、ほら、見えるかい。こんなに欲しがって……」
 愚直なまでにこうして言うことを聞くのは、そういう曹操の言いつけなのかもしれない。郭嘉は緩慢なしぐさで視線だけを下腹へ向けた。赤い粘膜が男根にはしたなく縋るさまを目にして、かっと頬を染める。
「いやっ。ち、違う……」
「違う? こんなにだらしない口を開けて、何が違うんだい。郭嘉、一体何が?」
 亀頭で一息に奥を抉ると、しなやかな脚がびくりと跳ね上がった。息を飲む鋭い音。雷に打たれたように大きく震えて全身が強張り、やがてくたりと力を失う。あまりの締め付けに徐庶も思わず呻いたが、何とか耐えた。射精でもしたのかと思ったが、彼の性器は未だだらだらと先走りを垂れ流したまま震えている。
「驚いたな……そんな風に気をやれるのか」
 郭嘉は恥じ入るように顔を背け、唇を噛む。いじらしい反応だった。肯定をしたに等しい。胸が締め付けられるような心地がした。この身体が愛おしく思えたのもあるが、大半は嫉妬のせいであった。滑らかな内股を撫で擦り唇を落とすと、その脚は逃れるように小さく空を蹴る。
「流石は曹操の女だ、身体の出来から違うんだな。君は見事な娼婦だよ、郭嘉」
 先に指で悦がったところを亀頭でずるりと擦り上げると、郭嘉は顎を突き上げ再び絶頂を極めた。二度はかわせず徐庶もまたああと情けなく呻き、思う存分精液をぶちまけた。息つく間もなく達し続けた彼の中は痙攣したように蠢き、射精したばかりの陰茎から白濁を絞り取ろうとしているかのようだった。限界を越えて苛まれ続ける快楽にめまいがする。これが本当に無意識ならばそれこそ郭嘉の身体の作りはおかしいのだ、もしくは曹操に余程作り込まれているかである。
 徐庶は思わず舌を打った。耐えられず吐精したが、曹操に負けたような気がして悔しくなった。せめてあの男では届かないような奥まで濡らしてやろうと腰を突き出すと、郭嘉はいよいよ怖くなったのか、腕へ触れてきて、何度も首を振った。
「ああ、あっ、や、やめて……徐庶、やめて。わ、わたし、もう……!」
 喘ぎに混じって呼ばれるのは、間違いなく自分の名だ。艶めいたその声が助けを求めて縋り、矜持を捨て懇願する。天にも昇りそうな心地とは、きっとまさしくこれを言うのだ。射精したばかりの性器が再び熱り勃ったのがわかった。
 どうせ抱かれ慣れた身体なのだ。制止に構わず奥を抉ると、郭嘉は息を飲み、歯を食い縛った。それでも全身がぶるぶると震えて美しい眸がぐると上を向く。いとも簡単に絶頂へ叩き上げられるのがおかしい。そうして締め付けてくる中が堪らない。はふはふと必死に呼吸する唇を覆うようにして吸ってやれば、最早逃れる気力もないのか、目を伏せ涙を零すばかりだった。
 あの余裕も焦りから来る虚勢だったのだろうか。必死で装ったのであろうそれを突き崩してしまったその充足といったら、策を弄しても人を殺しても味わえないだろう。下腹が溶けたような錯覚に陥って、どぷと白濁が溢れ出す。
 早いと罵るような冷たい視線が心地良い。普段なら恥じ入るところだが、彼が相手では仕方がない。それに、そんな眼をされてしまったら。軽く腰を揺すってやると、良いところを掠めたらしい、郭嘉は高い声でひとつ喘いだ。射精をしたばかりの陰茎を容赦なく絞るようにきゅうと締め付けてくる。
「ああっ、郭嘉、すごい、やっぱり君は天才だ、気持ちいいよ、郭嘉、あぁ……!」
「ひっ、う、ううっ、い、いや……」
 そうは言っても身体の方がこの有様では、まるで説得力がなかった。自分でも裏切られたような気持ちになったのか、郭嘉は泣きながらいや、やめてと繰り返す。駄々をこねる子供のようだ、何だか微笑ましくて、笑いが漏れてしまうのを止められなかった。欲しいものを与えれば泣き止むものだ。まともにいかせてやればいいだろう、適当にそう結論付け、だらだらと先走りを零すばかりの陰茎を握ってやる。腰を突き入れる動きに合わせて扱き上げれば、彼は薄い腹を波立たせて悶えた。
「あ、っん、や、ああぁっ!」
「ああっでるっ! 郭嘉、出るっ、出るよ!」
 体勢のせいで顔へかかった自身の白濁に眉をひそめ、郭嘉は溜息を零す。熱く湿ったそれが頬へ触れた、涙で濡れた眸がこちらを見つめた。認めた瞬間、徐庶もぶるぶると震えながら吐精していた。
 流石に疲労を覚えて腰を引けば、尻孔からどろりと溢れて落ちた精液が陰茎に糸を引いている。拭い取ったそれを頬へ塗り付けた。どれ程不快な表情を見せてくれるものかと期待したが、郭嘉はそれまで苦しげに歪めていた表情をふと和らげてしまう。
「ね、徐庶……あなたはどうして、そんなに怯えて、いるの……」
「え、お、怯えるって、俺が? どうしてだい、そんなこと」
 未だ弾む息に混じって、優しい声が問う。そんなはずはないよと笑ってしかし、徐庶は激しく動揺していた。穏やかな色をした黄金がこちらをじっと見つめてくる。ひるんでしまった。少しも険のないそれに戸惑ったのだ。凶行に及んでしまったのを受け入れ許すような、慈愛に満ちた眼をしている。
「ああ、かわいそうに、手が震えている。図星だったんだろう。どうか、私に話してくれないかな」
 包帯に包まれた郭嘉の左手が、そっと手のひらへと添えられた。形を合わせるように触れられると、その小ささや白さが際立った。死人のように冷たい手だった。見れば、清潔な白い布にじわりと血が滲んでいる。恐ろしい紅の色に、一瞬にして背が凍った。
 きっと消えないであろう傷を負わせてしまったのだ、この美しい人に。自分よりもか弱く儚い彼に、ひどいことをした。めまいがする。彼の言う通り震えているのを自覚した。呼吸が乱れ、額に嫌な汗が滲んだが、拭うことすらもできなかった。
「ね、何か、私にできることはないのかな」
 白い右手が前髪を掻き分け、汗を拭う。頬へ添えられたその手に思わず擦り寄った。ひやりとした感触が心地良かった。軽く頬を撫でながら、彼は柔らかな笑顔を浮かべた。
「私なら、あなたの力になれるかもしれない」
 私のことはよく分かっているはずだよといたずらに、少し得意げに、小さな笑みを刷くのが愛おしい。自信に満ち溢れているのに嫌味がないのは、努力してきたという自負と素晴らしい結果を伴うからだ。こういうところに憧れていた。近付ければと努力していたのだ。心臓の音が鼓膜を激しく打った。血のすべてが沸騰してしまったのではないかと錯覚する程、身体中が熱かった。
「そ、それは。でも、そんなこと……郭嘉どのには」
「私には、何?」
「ううん、駄目だよ。言えない。俺が言っていいことじゃないんだ……」
 郭嘉は緩く首を傾げて微笑み、言葉を続ける。
「私を裏切るような形になって、後悔している?」
「そんなことはない、と思う……俺は劉備殿に仕えられて幸せなんだ。でも、でも君が、郭嘉殿……あの、ええと」
 喉の奥までせり上がり、吐き出されようとしていた言葉を慌てて呑み込んだ。彼に釣り合うような男か、俺は。自問して卑下をして、冷静になろうとする。深く俯きながら、徐庶は首を振った。
「ああ……いけないって、分かってるのに!」
「徐庶殿、だいじょうぶ。何も怖がらなくて平気だ、私が何とかしてあげる。私なら、きっとあなたを助けてあげられるよ」
 言ってしまってもいいのだろうか。もう言葉と共に心臓を吐き出してしまいそうな気がした。この思いを告げてしまってもいいのだろうか。歪んだようなこんな汚い愛情でも、彼は受け入れてくれるのだろうか。震える唇を一度噛み締めてみる。歯がそれを裂いて、熱い血が溢れ出してしまいそうだった。意を決する。
「ね、一緒に戻ろう、徐庶殿」
 はっと目を見開き、顔を上げた。郭嘉は相変わらずふんわりとした笑みを浮かべている。
「私はあなたを助けたい。でもそのためには、こんなところに閉じ込められていては、手の打ちようがないんだ」
 何が慈愛だ。郭嘉はそんな甘い男ではない。人を騙して陥れる恐ろしい悪鬼のようなものだ。軍師とはそういう人間だ。しかも彼は特別優れて、あの男に、曹操に寵愛されるような人間なのだ。
「あ、危なかった。忘れていたよ、そうだ……」
 曹操、あの男だ、恐ろしい支配者だ。自分が食らい尽くしてやったような高揚感ですっかり忘れていたが、この肉には間違いなく曹操の噛み痕が残っている。郭嘉は曹操の物だ、曹操しか見ていないのだ、曹操のためとしか考えていないのだ。まさか、こんな自分に慈悲を掛けてくれるはずなどなかったのだ。
「俺を騙すつもりだろう。そんな都合のいいことを囁いて……汚らわしい、曹操の狐め。そんなに俺を馬鹿にしたいのか。この淫売! ふざけるな!」
 立ち上がって右手を捻り上げてやると、軽い身体がぐらと持ち上がった。無理やり上半身を起こされた格好の郭嘉は、腕の痛みに顔を歪ませるばかりだ。
 どうして信じてくれないのかと、せめて何か一言でもあればまだ気持ちも収まったかもしれなかった、いやもう遅いだろうか。あまりの怒りに視界がぐらぐらと揺れていた。白濁にまみれた汚い身体を寝台へ突き飛ばせば、反射的に左手で身体を支えようとしてしまったらしい、彼が醜い悲鳴をあげた。
「誰か、誰かいないか!」
 声を張り上げれば、その剣幕に驚いたらしい兵が数人、慌てて飛んできた。どうかされたのですかと恐る恐る問うてくる姿を認めると僅かだが冷静になれた、部下までも恐怖で支配するような趣味は徐庶にはない。
「ああ、ちょうどよかった。こいつを好きにしてくれていいよ、二度と馬鹿を言えないようきつく躾けてやってくれ」
 もったいないので傷だけはつけてしまわないようにときつく注意して、徐庶は手早く衣服を正した。
「俺は許昌へ向かう。直と洛陽も落ちるだろうし、今からここを発てば、ちょうど本隊と合流できるはずだ」
 洛陽へはホウ統が援軍に向かったのだ。そうでなくても若い将たちの勢いは凄まじいものがあったし、近く陥落の報が入るであろう。そうなれば、蜀と魏との長い戦いもいよいよ終局を迎える。徐庶はふと振り返った。力なく倒れたまま動かない郭嘉を、じっと見下ろす。
「曹操を殺すよ」
 息を呑む音が心地良かった。これを求めていたのだ。馬鹿な夢を見てしまったものだ、彼の甘い言葉に惑わされたとはいえ。
 これは曹操の物だ、それは確かなことだ。彼の心はそう簡単に手に入れられない。今の徐庶にはそうしようとする資格すらきっとない。だから曹操は、どうしても殺さざるを得ないのだ。だからこそ曹操の所有物という事実だけは何が何でも消してやらなければならないのだ。
「いいかい、郭嘉。俺は、曹操を、殺す」
 一音ずつ確かめるようにはっきりと口にして、踵を返す。まるで自分に言い聞かせているような気にもなっていた、そうだ、曹操は殺す必要がある。それが主劉備のためだし、自分の欲望を少しでも満たすためでもある。そしてきっと彼自身のためにもなるはずだ、この重い鎖のような煩わしいだけの執着は、どうあっても断ち切ってやるべきなのだ。
「ま、待って」
 袖口を両手で掴み、必死で縋ってくる。構わず振り払えば、床へ倒れ込んでしまった。ひどく扱った自覚は徐庶にもあるのだ、か弱い彼がふらついてしまっても仕方はなかった。しかしそれでも気丈に、声を張り上げる。
「待ってください!」
 あまりに悲痛な声だった、思わず振り返ってしまった。そして、目を見張る。
「おねがい……待ってください」
 郭嘉が跪いていた。額を床へ擦り付け、稽首していた。服従しようというのだ、この期に及んで命乞いをするという醜態を晒しているのだ。息が詰まった。唇が震えて視界が熱く潤んで鼻の奥がつんと痛くなって、もう堪らなかった。
「わ、私を、曹操殿のところに帰してください」
 やはり、曹操は殺さなければならない。徐庶には曹操が許せなかった。彼をこんなにも貶めてしまう男に生きている価値があろうものか。
 垂れたままの頭を撫で、顔を上げさせてやる。今にも声をあげて泣き出してしまいそうだ。徐庶の胸までひどく痛んだ。あまりに悲痛な顔をしていた。耐えきれずきつく抱き締めてやると、彼は喉が引きつれるような悲鳴をあげる。
「徐庶殿……おねがいです。私、あなたの言うことなら何でも聞くから。好きなだけ抱いてもいい、乱暴されても耐えます。ち、血だらけになっても平気です。何でもします。だから、おねがい……」
 その声は痛ましい程に震えていた。嗚咽が漏れないよう必死に抑え込んでいるが、息継ぎの度呼吸がひくひくと弾んでいる。
 かわいそうな男だ。恐怖を覚える程に賢くて、気が狂いそうな程美しいのに、今はこんなにも無様な姿を晒している。
 これも曹操のせいである。郭嘉はその恵まれた才知と美貌のためにあんなおぞましいものに魅入られてしまった。誰かが救ってやらなければならないのだ。徐庶は改めてそう決意した。哀れなこの人を、救ってやれるのは自分だけだ。こんなところで情に流されてはいられない。曹操だけは殺さなければならないのだ。彼を解き放ってやらなれけばならない。
 両肩へそっと手を添え顔を覗き込む。その眸は、水面に浮かぶ月のように頼りなく揺れていた。
「ごめん……出来ないよ、郭嘉。駄目なんだ」
 彼の眼から大粒の涙が零れた。宝石のように美しかったが、地へぶつかると儚く砕けてしまった。
「おねがい、いかせて。曹操殿のところに行かせて……」
 泣きじゃくる郭嘉をもう一度強く抱きしめ、徐庶は優しくその背を撫でた。落ち着くように二度三度と擦ってやり、最後にぽんぽんと頭を撫で、立ち上がる。
「大丈夫、すぐに戻ってくるよ。郭嘉、心配しないでくれ、俺は君を助けたいんだ」
 曹操を殺す。刺し違えてもだ。そしてこの憐れな人を助け出してやらなければならない。歪な使命感に駆られ確かに歩き出した徐庶は、もう振り返ることはなかった。

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2013.04.20