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ひとでなしのひとごろし_3

 許昌からの凱旋の脚は軽やかであった。いよいよ劉備の治世が始まるのだという喜びももちろんあったが、長安の私邸に一刻も早く帰りたかったからだ。自分を迎えてくれるのが見慣れた女官や兵たちだけではないということは、ひどく心を躍らせた。
 出迎えた賞賛の声に軽く応じて部屋へと急ぐ。そのうち嬌声のひとつでも聞こえてくるだろうかと思っていたのだが、しつけを頼んだ兵も含め、皆迎えのために出払っていたようだった。廊下には自分の忙しない足音ばかりが響いている。
 角を曲がって、抑えきれずに駆け出した。急いて思わず躓いて、両手に抱えた彼への土産を落としそうになる。面映ゆさにひとり笑んだ。きっと彼は喜んでくれる。そうなったら、今度こそ思いを告げるのだ。今ならそれも許されるはずだ。彼は聡い上に色恋沙汰には詳しすぎるから、もう言うまでもないのかもしれないが。何にしろ、返事はどうなるか分からない。しかしこの状況で拒んでどうにかなるというものでもないだろう。しかも自分は彼を解放してやった恩人であるから、もう結果は分かり切ったようなものだった。だらしなく緩む口端を必死で噛み締めながらまたひとつ角を曲がって、ようやくたどり着いた。ぶつかるようにして扉を開け、満面の笑みを浮かべる。
「ああ……ただいま!」
 寝台の上でぼうっと寝転がっていただけの郭嘉が、緩慢なしぐさでこちらを振り返った。
「郭嘉、今帰ったよ。元気にしていたかい、少し痩せたみたいだ」
 手にした荷物を卓へ置いて、郭嘉を両腕で掻き抱いた。満足に食事をしなかったのか、元々細かった身体は更に骨張り小さくなってしまったように感じられた。背を撫で擦り頭を撫で、肩口へ顔を押し付け思い切り息を吸う。精液の生臭いにおいを覚悟していたが、女官が気を利かせた香を焚き染めたのか、優しい花のかおりがした。すんすんと音を立てていると、鼻腔いっぱいにそのかおりが広がる。まるで犬のようだと少し笑ってしまった。彼はやめてとはにかむだろうか、期待を持って盗み見た彼の眸は、じっと卓上の何かを見つめていた。
「どうしかしたかい、郭嘉」
「徐庶、殿……あれは、まさか」
 視線を追えば目に入る、美しい一振りの剣だ。紫紺の刃が華やかで、柄の装飾の精巧さなど、一目で高価と分かる業物である。劉備にわがままを言って譲り受けた品だ。軽く振るえば、刃にぎらりと輝きが走る。本来の持ち主を思わせる、あまりにも鋭い光。郭嘉がこれを知らぬはずがない。
「いいだろう、これ。俺もあまりこういうものに明るくはないけど……やっぱり流石の品だと思うよ」
 ぜひ君に見せてあげたくてと床へ落としたそれに、郭嘉が息を呑んだ。慌てて駆け寄ろうとしたらしいが、まともに立てないのか、無残にも寝台から落ち赤子のように這っている。何とか剣へ触れると、恭しく胸へ抱いたちる涙が一粒、頬を伝い、刃を滑り落ちていく。鋭い光と混じって消えていくそれに、徐庶はうろたえてしまった。
「か、郭嘉、そんなの、俺も困ってしまうよ」
 泣いているのだ、とにかく抱き締めて落ち着けてやろうとしたが、郭嘉が強く首を振って嫌がるのでやめた。泣きやんでくれといくら言っても、その眸からはぽろぽろと涙が零れ落ちる。嬉し涙といったふうではない、ひどく悲しんでいる。
 曹操は死んだのだ。ここは厳しく言ってやらねばなるまい。彼らの過ごした年月を思えば、郭嘉がつらくなる気持ちも分からないでもないが、彼はもう自由なのだ。あの男の執着からようやく解き放たれたのだ。それをしっかりと教えてやらねばなるまい。徐庶はくと唇を噛んだ。現実を突きつけるのは少しかわいそうだったが、分かってくれれば、気が済めば、きっと彼も喜んでくれるはずだ。彼は優れて賢いのだし、そう難しいことでもないだろう。
 剣を抱き締め蹲る肩を掴み、無理やり顔を合わせる。その青白い顔はすっかり涙で歪んでいたが、やはり美しかった。
「郭嘉。曹操はもう死んだんだよ」
 やめて、と涙声が言う。徐庶は首を振った。毅然として言い張った。
「俺がこの手で討ち取ったんだ」
「聞きたくない……」
 憐れな程震えて、今にも消えてしまいそうな声音だった。ならば耳を覆えばいいのに、縋るように剣を抱き締めるばかりである。刃がその身体を傷つけてしまったらどうする気なのだろうと不安になって、柄を握り、剣を取り上げようとした。しかし郭嘉はそれを拒む。無理に引っ張るわけにもいかないので、語気を強め、離してくれるよう促した。こんなものに頼っても、もう無駄なのだ。持ち主はとうに死んだのだから。劉備と言葉を交わしたあの後、間違いなく止めを刺したのだから。
「曹操の首は切った。君はもう自由なんだよ、郭嘉」
「お、おねがい……聞きたくない」
 郭嘉はその頑なな態度をまったく崩さない。いよいよ我慢ならなかった。彼がこうも分からず屋だとは思ってもみなかった。優しくしてやってもどうあっても信じる気がないなら、現実を見る気がないなら、無理にでも見せてやるしかないだろう。かわいそうなことだ、しかし仕方ない、ちっとも話を聞こうとしない彼が悪い。
 徐庶はゆらりと立ち上がった。未だ蹲ったままの郭嘉が嫌に小さく見えた。全身が震えてしまう。ひどいことを言ってやるつもりはなかったのだ、彼もしばらくは深い傷に悩むだろうから、優しくしてやりたかった。いつまでもぐずる、彼の方が悪いのだ。手を差し伸べてやっているのに無視をする方が悪いに決まっている。
「なら見せてあげるよ、郭嘉。曹操が死んだって証を。俺が殺したって証を!」
「もうやめて!」
 郭嘉が叫んだ。喉が裂けてしまったかと思う程、悲痛な声であった。
「ううっ、うっ。ひぐ、うっ……」
 あれ程大事に抱いていた剣を取り落してしまう。力なく床へ崩れ落ち、顔を覆って涙する。小さな嗚咽はしかし、徐庶の鼓膜をひどく打ち震えさせた。
 こうも泣くのか。一応かわいそうだし、そういう姿もかわいらしいと思うが、それ以上に面倒だった。人間相手では戦のようにはっきりと策がはまってくれるものでもない。彼は優秀な軍師だったから、一層そうなのだろう。ゆっくりと手間をかけていくしかないのだろうか。
 だがそれもまたいいのかもしれない、もう乱世は終わったのだ。劉備は国を変える。誰も悲しまない、誰も苦しまない、素敵な世界へ生まれ変わるのだ。時間ならいくらだってある。そして彼の味方はもう、ここにいるたった一人だけだ。それ以外は皆死んでしまったのである。郭嘉は浮気なところがあるから、その視線が定まらないと中々説き伏せにくいだろう。だが彼が見つめられる先はこの世に一人しかいないのだ、自分しかいないのだ。時間をかければ、きっと分かってくれる。
 卓の上から丁寧に布に包んだ荷を落とすと、重量のある鈍い音がした。郭嘉がひっと悲鳴をあげて竦み上がる。どういう勘違いをしたかはすぐに分かった。
「はは、かわいいな君は。曹操の首なんかじゃないよ。腹が減ったままじゃかわいそうだと思って、土産を持ってきたんだ、ほら、饅頭だ。いいだろう」
 郭嘉が自分のことをどう考えているのか徐庶にはまるで分からなかったが、流石に首を見せつけてやる程に悪趣味ではない。ころんと転がり出た饅頭を、食べていいよと差し出してやる。しかし彼は怯えるばかりであった。ただでさえ青白い顔からはすっかり血の気が引いてしまって、震える奥歯ががちがちと音を立てている。食べたくないというなら邸内の皆に配るまでだが、郭嘉は実際に痩せてしまっているのだ。恐らく兵らにひどく扱われたかまともに食事をしなかったか、その両方かである、放っておくわけにもいかない。
 仕方ないなと呟いて、大きくひとつ溜息を吐き出した。大きく一口饅頭をかじり、音を立てて咀嚼する。先にされたのを思い出してか郭嘉は嫌がって首を振ったが、死なれたらとても困るのだ、どうあっても食べてもらわなければならない。
 無理に唇を合わせ口移しをしてやると、諦めたらしく大人しく接吻を受けてくれる。しかし余程弱っていたのかうまく嚥下ができず、激しく咽てしまった。噛み砕いてやった饅頭が口から落ちると、ついでびちゃびちゃと濡れた音がする。胸を掻き毟るように衣服を握りしめながら、郭嘉は成す術なく嘔吐していた。彼にしては汚らしい呻くような声が、腹の底から吐き戻される。やはり何も食べていなかったのか、ただ胃液が溢れるばかりであった。床に広がった体液は容赦なく剣へも降りかかり、刃を汚してしまう。そこへぽつぽつと波紋が広がった、汚物の中に涙を零して啜り泣いているのだ。指で掬って顔へ塗りつけようとすると、いやと叫んで強く拒絶され、手を払い除けられてしまった。あの眼の黄金は射殺さんばかりにぎらついてこちらを睨むのに、涙が後から後から溢れてくる。頬にはやはり、幾筋も水滴の伝った跡があった。
「ああ……郭嘉……」
 身体の芯がかっと熱くなる。単純な陰茎がその光に当てられ熱り勃った。
 曹操も殺してしまったのだし、彼に帰る場所はないのだ。どうやってもここで生きていくしかない、それ以外を徐庶は許さない。賢い彼がそれを分からないはずもない。いずれは分からざるを得なくなる。だからこうも嘆くのだろう。かわいそうだが、それ以上に嬉しかった。
 しばらくはこうして泣き暮らすことになるだろうが、死んだ人間のことなどいつかは忘れてしまう。どれ程頭が良かろうと、それは仕方のないことなのだ。愛されていようと抱かれていようと、確かにその存在を記憶に刻まれようとも、消えてしまう。郭嘉もいつかは、曹操との付き合いよりも徐庶と過ごした年月の方が長くなったと思い知る日が来るのだ、曹操は死んでしまってもう二度と会えないのだから。
「ころして」
 ふと郭嘉が呟いた。徐庶はごくと生唾を呑み込んだ。これ以上なく注意深く、何だいと尋ねた。
「もう殺して……」
 鼓膜を揺らすその音が、ずぐりと腰を震わせた。溜息が熱く濡れる。その隙をつかれた。
「殺してくれ! 曹操殿のいないこんな世に、私の生きる場所なんて」
 腹の上へ郭嘉が馬乗りになる。不利な状況に追い込まれたのに不思議と焦りを感じなかった。彼の両手が首へと伸びる。体重をかけて締めようとするのに、まるで力が入っていなかった。そういえば左手は貫いてやったのだった、徐庶は頭の片隅でそれを思い出していた。無理に力を込めたせいか傷が開いたらしく、鉄さびのようなにおいがした。
「殺せ。早く! もういや、私は、こんなところにいられない!」
 この軽い身体など簡単に振り払えてしまうのに、そんな気にはなれなかった。髪を振り乱し唾を飛ばし、涙をぼろぼろ零し、叫ぶ姿こそがかわいらしい。徐庶はうっとりと笑みを浮かべた。いつまでも飽きることなく見つめていられる。
「曹操殿のところに逝かせて……」
 崩れ落ちる。両手で顔を覆って、慟哭する。かわいそうだ、あまりにも哀れだ。涙はきれいだが血は汚い。だがその胸から流れる見えないそれだけは、とびきり美しかった。ぱっと視界に光が飛ぶ。股座に濡れた感触があった。全身がぶるぶると震えた。こんなふうに彼を傷つけられるのは自分だけだ。そしてもう、それも最後だ。これからは彼と分かり合うために過ごすのだから。
 郭嘉と彼の名を呼んだ声は、自分でも驚く程に甘かった。蕩けだしてしまいそうだった。
「曹操は死んだ。世はもう、劉備殿が治めるんだよ。これからこの国は、仁の国になるんだ」
 殺してと譫言のように囁き続ける唇を、己のそれで優しく封じてやる。舌を絡めて唾液を混ぜて、呼吸すら奪い尽くすように激しく口付けて、ようやく唇を離してやったときには、彼はくたりと胸へ倒れ込んでしまった。腰へ手を回してその痩身を支えてやりながら、一緒になって身体を起こす。その涙目は確かに自分を見つめていた。やはり彼は賢い。自分にはもう徐庶しかいないのだと自覚している。縋っている、頼っている、そんな眼があまりにも愛おしい。これを殺せるはずがなかった。
 そしてこの仁の世の中で、殺しなどというおぞましい行為がまさか許されるはずがなかった。
「ああっ、嬉しいな。もう誰も殺されなくていいんだ。俺の手も、もちろん君の手だって、もう汚さなくていい。郭嘉、君が死なずにすべて済んでよかったよ。曹操のおかげだね。仁の国、万歳! 劉備殿、万歳!」
 彼の身体をぎゅっと抱き締めて、徐庶は朗らかに笑った。乱世はようやく終結したのだ。ここに確かに始まったのは仁の世だ。これからは争いなどない、優しさの溢れる幸せな国になる。そんなところで彼と二人、ゆっくり歩んでいけるだなんて、少し前ならば考えもしないことだった。心の底から笑みが溢れるのは一体いつ以来であったのかもう思い出せない。だがどうでも良かった。これ以上ない幸福だった。郭嘉はそっと瞼を閉じて泣いていた。零れる涙が希望のように光って見えた。

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2013.04.20