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こどくの主_1


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 深く垂れた頭に注がれる双眸が疑念に満ちて厳しいものになるであろうことはとうに予見していた。華北の雄、袁紹を下したこの男になんと馬鹿な話をふっかけたことかと、徐庶はもちろん自嘲しているのである。自分が優れた人間であるという自信など打ち砕かれて久しいが、今ばかりはこの矢よりも鋭い視線に耐えるしかない。対する男はふむと難しく呻くと、ひげを擦り擦り笑った。よくもここに来る気になったものだとこの愚かしい勇気を讃えてみせたのである。その低い声音は威厳に満ち、ゆったりと玉座に腰掛ける姿には堂々の風格がある。やはり自分は本当に、中原の覇者たる曹操の元へやって来てしまったのだ。徐庶は神妙に畏まりながらも、なおも言葉を続けた。
「どうか、考えてはいただけないでしょうか」
 ここで退くわけにもいかないのは先に延々述べてやった通りである、この乱世に起ったはいいが、度重なる隣国の侵攻に国は疲弊しきっていた。南に劉表、西に張魯や劉璋を臨む襄陽の地を徐庶だけで支えるには無理がある。今後南征することも視野に入れているであろう曹操だ、たとえ今は従属する形になろうとも庇護を求めるにはもうこの男しかいない。ここで首を縦に振らせなければこのまま乱世に飲み込まれることになる、徐庶はそれをよく分かっていた。
 だが状況は思わしくない。曹操自身は恐れ知らずの徐庶に興味こそ持ったようであるが、大国の主としては、襄陽の小国を助けてやるような理由などないと考えているのだろう。確かに、貢ぐことのできるような資源など何ら持たないのだ。兵力さえ何とかなれば南方からの侵攻を防ぎ止める防壁くらいにはなれるだろうが、そもそもそれ程の軍を有していればこんな窮地に立ってはいない。
 やはり自分が国を興すなど無理であったのだ、徐庶は俯いて強く歯を食い縛った。簡単にいくはずもないと分かっていたつもりだが、甘かったのだろうか。次は何を言い出すものか、それともこのまま引き下がって消えるのか、曹操が試すようにしてこちらを見下ろしている。考えは上手くまとまらないが、この沈黙はあまりにも苦しい。何とかもう一度説得をと口を開きかけたところに、ふと声がかかった。
「お待ちいただけませんか、曹操殿」
 涼やかな声音が鼓膜を揺らすと、緊張に張り詰めた胸がすっとすくようであった。名を呼ばれた曹操もまたその相貌を崩す。声から察するに男であろう、振り返れば、濃紺の外套に身を包んだすらりとした影があった。目深に被った頭巾を窮屈そうに脱ぎ、軽く頭を振る。ふと小さく息を吐いて笑むと、踊るように揺れる髪の金が鮮やかだ。だがそれよりいっそう美しいのはその整った顔立ちである、華やかなこがねの色にも負けない眩いばかりの美貌だ。
 先までの厳しさはどこへやら、穏やかでいっそ甘ったるい声で曹操が言った。
「郭嘉よ、戻っておったか」
「ええ、つい先ほど。すみません、このように見苦しい姿のままで」
 風よけを羽織ったままであるのを気にしたらしい彼は軽くはにかんでいる。郭嘉とは、聞いたことがある。この男は一体何を話しにきたのかと、自分を余所にして交わされる二人の会話を聞き流しながら徐庶は思案していた。郭嘉、字を奉孝、曹操の忠臣だ、袁紹を下した官渡の戦いにおいて輝かしい活躍をした優秀な軍師である。徐庶もまた兵法を学ぶ者として興味があった、どんな老獪な眉雪であろう、そう思っていたのだが、この青年が郭嘉だとは。
 改めて見るに年の頃は同じ、もしかすると少し若いかもしれないが、野暮ったい自分となど比べる気にもならない程に秀麗な容姿であった。すうと通った鼻筋や切れ長の眸など、気品すら感じられる。
 今更ながら徐庶は気が付いた、跳ね回る真っ黒なくせ毛はもちろん手入れをしていないひげすらもそのままなのである。曹操が興味を惹かれるはずだ、こんな美しい男を間近に置いているらしいのだから、垢抜けない自分は珍しく思えたことだろう。
「それから、江陵が賊に襲われたという話ですが」
 声を大きくしたのか郭嘉の話がしっかりとこちらにまで聞こえてきて、額にじわと汗が滲んだのを自覚した。襄陽を掠め取り、江陵までも奪おうと出兵していたのは他ならぬ徐庶であるからだ。
「荊州は混乱しているようです、襄陽の民はとくに。戦火に怯え、統治もまともにされていないとか」
 南征のための視察であろう、郭嘉は国境へと出向いていたようだ。言いながらこちらを一瞥し、どんなひどい統治者に代わったのかはわかりませんがとこれ見よがしに落胆してみせた、高貴な見目にはとても似つかわしくない意地の悪いやり方だ。そのしぐさに、徐庶はぐと胸を掴まれたような気になる。
 自分の命運はもう彼に握られたも同然であった。実際に襄陽の地へ赴いた郭嘉の進言だ、曹操は従うであろう。劉表への反乱軍として早々に討たれるか、徐庶の考えていた通りに属国としてでも生かされるか。前者であれば劉表との同盟の足掛かりとされるのだろう、そんなことでは困る、どちらにしろ彼らに利用されることは確かであるが。郭嘉を窺うと、再び目が合った。ぱちりと瞬く、眸がじっとこちらを見つめている。くっきりとした満月のように円かな金色だ。何か心底まで見透かされているような心地であった。だがこれに怖じているようでは話にならない、挑むように見返してやると、ふとその視線が和らぐ。気を張っていたところにひとつ微笑まれ、拍子抜けしてしまう。
 郭嘉は殊更のんびりと曹操の元へ歩み寄ると、その耳元へ一言二言何か囁いたようであった。頷く曹操を尻目に、再びこちらに向けて郭嘉が笑う。そのいたずらっぽい笑顔に思わず身構えたが、低い声で唸るようにこの名を呼んで、続く曹操の言葉は徐庶にとってこの上なくありがたいものであった。
「おぬしの話、受けるとしよう」
「曹操殿……! ありがとうございます」
 つまり、郭嘉は自分を必要だと判断したのである。この命は劉表との関係改善にも使えた、だがそうはせず、生かしてくれるというのだ。南方の国々からの侵攻は今後も続くだろうが、これからは曹操の援軍が期待できる。兵力の不足を補うためにと女子供まで戦に駆り出す必要もなくなるだろうし、郭嘉が見た国の惨状も少しはましになるはずだ。しっかり曹操殿の役に立ってねと声をかけられ、徐庶は恭しく礼を執った。
「今は資源はともかく、情報に期待しているからね。あなたは頭がよさそうだし……私の言いたいことは、わかってもらえるかな」
 小さく頷きだけを返す。劉表、劉璋、張魯、曹操の南征を阻む者について定期的な報告をしろというのである。確かに、今後勢力を広げるにあたって、それらの情報を得ることは重要だろう、曹操にとってはもちろんそうであるし、徐庶にとってもまたそうだ。
「本当に……受けていただいて助かりました。この世も捨てたものではないですね」
 苦笑しながら言えば、曹操が矢のように鋭くぎらりとした目でこちらを見やる。
「徐庶よ、おぬし、この乱世をどう見る」
「民の……民のためを思えばこそ、一刻も早く安楽に。どのような手段を使ってもそれがきっと治世のためです、曹操殿。誹りなど、太平の前には眇々たるもの」
 曹操はほうと息を吐き、玉座へゆったりと肘をついた。その横で、郭嘉もまたこちらを穏やかに見下ろしている。覇道の軍勢を非難するつもりなど徐庶にはまったくないのだ、すべて事実であった。
 だが袁紹を打ち破った軍の協力を得られたのである、従属の道を受け入れながらも、徐庶は己の思いを諦めてなどいなかった。孤立無援のまま四方から攻撃され心が折れかけていたが、知を磨いてきたのは、この地を覆う戦乱を終わらせるために他ならない。
 袁紹を打ち破ったと聞き、曹操こそが最も乱世の終結に近付いたと徐庶は思っていた。そしてこうして国を訪れ、その思いは確信に変わった。集った将兵、時勢、すべてがあの男を後押ししているように見える。
 そして何より郭嘉という男だ、天が曹操の味方についているのかもしれない、本気でそんな空想じみたそんな考えを抱いてしまう程に明媚な容貌である。すらりとした痩身は男の骨格をしてはいるが、それらしい衣をまとい天女だと言って現れればすっかり信じてしまうだろう。それを裏付けるような素晴らしい知恵もあるし、穏やかな物腰もまた良い。
 今自分に足りないのは兵力、領地、枚挙にいとまがない。そしてそこに天啓も挙げられることはきっと間違いないのだ、曹操に侍る郭嘉を見ているとそう思う。
 だが、あのような稀有な存在がそうそう世にあるものでもない。ならば、どうするか。どうすれば自分が天に選ばれるのか。帰国の途に就きながら徐庶はじっとそれだけを考えていた。痛罵も糾弾も取るに足らない、すべては乱世を終えるためなのである。

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2013.09.30