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こどくの主_2


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 すっかり聞き慣れてしまった声に熱っぽく名を呼ばれ、郭嘉は渋々後ろを振り返った。思った通り、重たそうな革の衣をばたばたと揺らしながら徐庶が駆け寄ってくる。上着にまだ血の跡が窺えるから、兵をまとめもせずにすぐさまこちらへやって来たのだろう。郭嘉の方はといえばこれを見越し、兵を急かして出立の準備をさせ、許昌へと引き上げる道すがらにあった。共に派兵された張遼と他愛ない話をしていたところである、思わず眉間に皺を寄せ重苦しい溜息を漏らしてしまいそうになって、急いで笑みを繕った。
「どうしたの、徐庶殿。そんなに慌てて」
「郭嘉殿、あの……何というか、すごい活躍だった。君みたいな人が味方にいてくれて、本当に心強いよ!」
 そう言われるのも何度目であろう、呆れる程に聞かされた言葉だ。自分が曹操に同盟を受けるようにと進言したこともあり、郭嘉は忙しい中でも出来る限り積極的に徐庶の助けとなれるよう動いていた。どこからか攻め込まれると聞けばすぐさま状況を把握して打開策を与えたし、今回のように将兵を伴って援軍に駆けつけたことも数えきれない。そしてその回数を重ねる度に徐庶の眸はいっそう熱いものを灯していくのだから、郭嘉が嫌な寒気を覚えても仕方はなかった。
 軍というには厳しい僅かな手勢で襄陽の地を奪い取った徐庶の手腕は見事としか言いようがないが、そのことで劉表の矜持は深く傷ついたのであろう、侵攻は苛烈を極めている。曹操が徐庶と同盟を結んだこともその一因となったに違いない。今の戦の実態は曹操と劉表との争いである、官渡で袁紹を討ったことで各国から警戒され小康状態に陥っていたが、これからは状況が大きく動いていくだろう。
 劉表の目を襄陽へしっかりと釘づけにしておいて、着実に西から外堀を埋めていく。南蛮の勢力も気になるし、孫策についての確信めいた予見があるとはいえ呉の力はやはり強大だ。いずれはこの地も曹操のものにするとして、今は徐庶に耐えてもらわなければならない、郭嘉はそう考えていた。この男にそこまでの器量があるのかどうか。それくらいの才知はあると判断したからこそ生かしたのだが、この妙な態度までは想定していなかった。上目に睨むようにして徐庶へ視線を向ければ、その顔がぱっと明るくなる。
「あの、郭嘉殿、仕官のことは考えてくれたかい」
「仕官ですと。郭嘉殿、いかがなされた」
 いぶかしげにそう問うたのは張遼だ。先は共に戦った上、今もずっと郭嘉の隣にいたというのに、徐庶はようやくその存在に気付いたのだろうか、僅かに身を引いた。張遼は戦場ではともかく平時は穏やかな気質であるが、いかにも厳つい武人といった容貌であるし、怖がっているのかもしれない。張遼殿もありがとうととってつけたように早口に礼を述べ、徐庶は改めて仕官について話を始めた。これも散々聞かされたことだ。
「は、恥ずかしい話なんだが……俺だけでは内政にまでちゃんと気が回らなくて」
 以前の視察でも分かっていたことではあるが、襄陽の内情はひどいものだった。民は飢えに喘ぎ、失意が国中に広がっている。劉表の統治が良かった分、今の苦しみは計り知れないものがあるだろう。
「べつに、私もそういうことが得意というわけではないのだけれど。戦のことを考えているほうが、性に合っているしね」
「勿論、俺なんかが君と釣り合わないのは分かってるんだ。それでも、君さえよければ! いや……あはは、わ、忘れてくれ……」
 そうして恥じ入るように俯くので、郭嘉はついに大きく溜息を零してしまった。いつもこんな調子なのである。曹操以外の男に使われる気などさらさらないし、毎回きっぱりと断っているのだが、こうして戦場で会うとき、情報を持ってきたからと宮中にやって来たときなど、徐庶は必ず仕官するよう求めてくる。もちろん、この男の報告が曹操にとって有益な情報であるのは間違いないし、今や軍にとって必要不可欠なものだ。それらが得られるだけでもあの同盟は価値あるものだと言える。しっかり役目をこなして曹操の役に立つようにと念を押したのは郭嘉であるが、それにしても諦めが悪いというか、気が小さいらしいのにそういうところばかりが剛毅というか。はっきりと言ってしまえばとにかくしつこい、悪漢に付きまとわれる女の気分が分かるような気さえした。
 視線を感じて振り返れば、張遼がこちらをじっと見つめている。どうするのかと言いたげな色の眼であるが、郭嘉の気持ちは揺らぎようもなかった。何度言われても、どれだけ頭を下げられようとも何を貢がれようとも、曹操に仕え続ける決意は変わらない。
 しかし、どうするべきか、珍しく郭嘉は逡巡した。張遼との付き合いも長いのだし、まさか本当に自分が徐庶についていくなどとは思ってはいないだろう。だが男の眸は揺らいでいた、不安そうにこちらを見つめていた。曹操の軍において、張遼は大いに頼りになる武将だ。ある程度は策を理解して臨機応変に動いてもらう必要はあるとはいえ、下手なことは考えず、一心不乱にその武を揮ってもらわなければ困る。将をそういう状態にしてやるのが軍師としての郭嘉の務めだし、要らぬ心配をかけるのもよくない。特にこの男は心配がすぎるのだ、郭嘉は特別目をかけられているという自覚があった。かつて彼の前で病に倒れ生死の境をさまよったこともあったから、今でも気遣ってくれているのだろう。そんな男が、この仕官の話を聞いて黙っていられるはずがない。徐庶はこれからもずっとこの調子だろうし、きっとまた張遼が顔を合わせる機会もある。そのことで精神を乱されてしまっては困るのだ、軍師ごとき、勇将や君主が気に掛ける必要などない。
 よくよく考えれば、曹操の国の民にあれ程苦しんでいる者があるというのも癪に障る話ではある。曹操は民のためを思い、過酷な道を歩んでいるのだ。ときに悪だと罵られ正義を気取った輩に恨まれることもあるが、覇道こそが世の民を救うことになると確信している。郭嘉もまたそれを信じているからこそ寄り添い、これまで生きてきた。曹操の国とはその理想を体現するものでなければならない。それが汚されるようなことはあってはならないのだ。
 はにかみながら苦笑をしてしかし、徐庶の双眸にはいつも通り期待が覗いている。張遼はまっすぐ射るような眼でこちらを見つめている。どうするべきか、曹操への思いは変わりようがない。しかしそうであるからこそ、ここは一度徐庶に従うべきではないのか。
 郭嘉は張遼にひとつ笑みを浮かべてみせた。信じてくれているからこそ、分かってくれることだろう。思った通り、郭嘉殿と焦って名を呼ぶ声には既に制止の色があった、察しの良い男でよかった。
「ね、徐庶殿、仕官してあげる」
「えっ、ほ、本当かい。本当に、俺のところに?」
「うん。ああ、はっきり言っておくけれど、ずっとあなたに協力しよう、というわけではないよ」
 徐庶は目に見えて落胆したが、それでも興奮を抑えきれないようだった。本当にとしつこく何度も問うので、郭嘉もつい言葉がきついものになってしまう。
「季節が巡るまでに、あなたの国、民を必ず豊かにしてみせます。それで、終わり。私は曹操殿のところに戻るよ……それでもよければ」
 協力してあげようと言い切る前に、徐庶がぶつかるようにして抱き付いてきた。一回りも大きな男に飛びつかれてよろめくと、張遼がそれを支えてくれる。それでもいい、嬉しいと叫び懐いてくる男はまるで犬のようだ。呆れ混じりの笑みを浮かべながら張遼を見上げると、苦渋の色濃く浮いた顔があった。
「張遼殿、迎えに来てね。ぜったいだから、ね」
「無論。貴公を決して失うわけにはいきませぬ」
 張遼に念を押し、身体を離してなお嬉しさを抑えきれないといった様子でいる徐庶にもしっかりと確認する。延々徐庶に仕えるわけではない。契約を証するのは張遼だ。すぐにでも徐庶の治めるあの地を曹操に相応しい国に変えてみせる、郭嘉は固く決意した。土地を再生し、民を幸福にする。戦火から守り抜くことも肝要だ。襄陽の現状を思えば簡単なことではない。しかし、それによって、傍に仕えずとも曹操のためになることはできるはずだ。これで張遼が心配をする必要もなくなるし、戦うことに集中できる。鬼神の宿る曹操軍に負けはない。そうしていつか曹操があの地を手にしたとき、その豊かさに感嘆してくれるに違いない。そう思うと力が湧いた。それに、曹操の国の外をしっかりと見てくるのも悪くないだろう、郭嘉はのんびりとそう思った。ずっとあの男に仕えてきたことは誇りだが、そのせいで分からないことももしかするとあるのかもしれない。郭嘉がもう一度笑いかけてやるとようやく、張遼は僅かにだが頬を綻ばせてくれた。
「郭嘉殿……信じておりますぞ」
「ありがとう、張遼殿。心配しないで。私のことを信じて。待っていてほしいな」

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2013.09.30