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こどくの主_6


 5
 何か心の拠り所にしていたものが、跡形もなく崩されたような気がしていた。夏侯一族を始めとする優れた忠臣たちの猛攻を防ぎいなしてとうとう許昌の地へ追い詰めた曹操を、徐庶はついに破ってしまった。
 今郭嘉の目の前には曹操の姿があった。こんなにも近くでその姿を見るのはいつ以来なのか。曹操との再会は互いにとって喜ばしいものとなるはずだった、徐庶の下から戻り、共に覇道を征くのだと改めて誓い合う場になるはずだった。しかし実際はどうだ、曹操は縄をかけられ敵として対峙している。こんなことになるなど、一体どうすれば予測できたというのだろう。
 郭嘉は愕然としていたのだ、あれ程圧倒的な存在だと信じていた、天が認めた覇者だと信じていた曹操が、ついに徐庶に敗れてしまった。そのことでもう何も信じられなくなっていた。いずれこうして捕まえることになるのは、徐庶から逃げず付き従うことを選んだときから分かっていた。だがそのせいで、ここまで自分の心が空虚なものになるとは思いもしなかったのだ。それ程までにこの男に依存していたのだろうか。思えばそうに違いなかった。自分もまた、徐庶と変わらぬ狂気を秘めていたらしい。曹操を見下ろし思う。
 散々民や敵将を散らしておいて曹操を始めとするかつての仲間にだけは死んで欲しくないなどと願うのも、よくよく考えればおかしな話である。自分一人が呪を受ける犠牲になればいいと思っていたくせに、結局はこれ以上の喪失感には苦しみたくなくて甘えていたのだ。
「曹操殿……」
 覇者となった徐庶を目の前にしながらも、曹操の眼は静かにこちらを見つめていた。逃れようとするのを許さないと言わんばかりにじっと視線を注がれて、息苦しさすら覚える。あれ程愛おしかったその黒檀が、この身を苛むようだった。
「郭嘉。壮健か、安心したぞ」
 それでも曹操は微笑んだ。ぞくと背筋が震えたのはその声が優しい甘さを含んでいたせいではない、どうやっても曲げられぬ強い覚悟を感じたせいだ。
 この男は死のうとしているのではないか。徐庶に従った郭嘉に覚悟があったように、曹操もまた覚悟をしているに違いない。それを郭嘉に動かせるはずがなかった。危惧していたことだ、何も残らないのではないか。立っていられなくなる。呼吸が乱れて荒れるのを曹操が労わるように見つめていた、頭や胸、背を優しく擦ってくれるはずもなかった、敗北の将は身動きすらできぬよう四肢も胴も縛られているのだ。曹操の生のために自分は逝ったのに、曹操は初めから死ぬ気でいたらしかった。ならば何のために徐庶の言いなりになったのか。曹操ではなくその名を呼んで、縋って気をやったのか。胸を押さえて蹲る、降りかかるのは徐庶の取り乱したような声だ。
「郭嘉、困った。曹操が言うことを聞いてくれないんだ……どうしよう、どうしたら……」
 生かしてやる、登用してやると言うのに拒絶する。ならばもう処断するしかないのだ、徐庶はいつもそうしてきた。
「そ、曹操殿。おねがいです、下ってください!」
 郭嘉の意図を汲んで下ってくれさえすれば、曹操を密かに逃がしてやることができる。曹操が自分の考えを見透かせぬはずがない。分かっていて、それでも拒むのだ。そうだった、この男は生に縋るような人間ではなかった。そのために矜持を失うくらいなら、潔く死を選ぶような男であったのだ。
 何をそんなに慌てているんだいと首を傾げた徐庶に構わず郭嘉は言葉を続けた。一縷の望みにかけて懇願をするしかなかった。無駄だとは分かっていた。それでも、曹操の死を黙って見てはいられなかった。
「曹操殿、その屈辱は、私にも痛いほどにわかります。ですが、どうか……」
「郭嘉!」
 大声で怒鳴られ、郭嘉はびくりと肩を竦めた。無視をしたのが逆鱗に触れたらしい、肩を鷲掴みにされて無理やりに視線を合わせられる。無理な姿勢に顔を歪めると、叱るようにして再び強く名を呼ばれた。
「俺の話を聞いてくれなくちゃ困るよ! 君は誰の軍師だ! 郭嘉!」
 郭嘉は言葉に詰まった。軍師だというのにまともな答のひとつも浮かばなかった。詰問に答える代わりに音になったのは途切れ途切れの謝罪の言葉だった。ごめんなさいと、何とか口にするこの姿を、曹操は一体どう見ていたのだろうか。
 徐庶は郭嘉が大人しく頭を垂れたのを見ると満足げに微笑み、先に平静を失っていたのは何だったのかと疑いたくなる程に冷然として言い放った。
「曹操は……もう駄目だな」
 それの意味するところは処断である。助けられると言っていたから抱かれたのに、徐庶はどこまでも冷ややかだった。やめてと言っても仕方がないと切り捨てられる。約束が違うと縋っても言うことを聞かないのだから仕方がないとやはり相手にされない。確かに、曹操は郭嘉の願いを聞き入れてはくれなかった。だがそうだとしても、この男は本気なのだろうか。陳羣がそうだったように、目の前で、別れも何も言わせてもらえず首を斬られてしまうのか。
「徐庶殿、やめて。ま、また……何でもするから。おねがいです」
 乱暴をされようと何だろうと、曹操を救えるならそれで良かった。自分のことを愛していると徐庶は言うのだからそういったことを強要されるのだろう、それでも郭嘉は必死で頭を下げた。例えば曹操の前で犯されるとしても、その命を繋ぐためならば耐えられる。
 しかし、徐庶が渋々口にした言葉は郭嘉の想像を遥かに越えるものであった。
「そういうことなら、仕方がないね。君が自分で断ち切るといい、すっぱり諦めがつくだろう」
 手を取って、曹操との戦で未だ返り血に汚れたままの撃剣をそっと握らせてくる。
「え……な、なに」
「君が討つんだ」
 それを受け取りおそるおそる握りながら、郭嘉は震える声で問うた。
「な、なんで。そんなこと」
「郭嘉、君が曹操を殺すんだ、早く」
「無理に決まっているよ、そんな、わ、私には」
 こんなにも鋭い刃を手にしたことなどない。誰かの首をこの手で切り落としてやったことなどない。誰も殺したことがないなどとは言わないが、それでも、こんな殺し方をしたことはなかった。しかも相手は曹操である。混乱した頭であっても徐庶の言い分も分からなくはない、未練を断ち切れというのだ、徐庶に従うことを決めたのだから、過去ばかりに囚われるなと言いたいのだ。だが徐庶に服従したのは曹操を生かすためである。抱かれたのもそうだ、殺すためではない、断ち切るつもりなどない。断ち切れるはずもないのだ。分かっているだろうに、徐庶は激しく叫んだ。
「君は俺の軍師なんだ、曹操が生きていたら俺の邪魔になるってわかるだろう! 殺すんだ。殺すんだよ!」
 恐ろしい言葉が鼓膜を乱打する。驚く程血の気が引いていた。これ以上なく大きく震える手が剣を取り落してしまいそうだった。脳が揺れて、視界がぶれた。狭く霞んでいくその中で、曹操はもうこちらを見はしない。命令を聞かなければ郭嘉も危ういと分かっているのだ、何も言ってくれはしなかった。もう別れの言葉を交わすこともできない。曹操は分かっていた、だから先程すべてを込めて、安心したと笑んでみせたのだ。ここで郭嘉が徐庶の命令通りに曹操を殺せば、もう一生こうして怒りをぶつけられることもなくなるだろう、戦乱を終えた世界で平和に生きて行けるだろうと、この若い命に何もかも託して死のうとしている。
 そうではないのだ。いよいよ視界はぐちゃぐちゃになって滲んでしまった。涙を零している、頬が濡れて知った。曹操の願いは叶わない。ここまで呪のような争いを導き続けた自分は、もう死んでいった魂に囚われ続けるに決まっている。だからこそ曹操に、その内の一人になって欲しくなかった。乱世の犠牲者として歴史に語られるような男になって欲しくない。高潔な矜持など所詮役に立たないし、下らないものではないか。武将として、そんなものよりも先に命を投げ出さなければならないなんてあんまりだ。すべてを捨てても生き残って欲しかった。
 だが、曹操自身にはもう生きる気持ちはかけらも残っていなかった。だからといって、殺してやれるはずがない。郭嘉は歯を食い縛った。そうして決意する。両手に握った剣を勢いよく振り上げ、そのまま遠くへ放り捨てた。徐庶が何か喚いている、曹操がじっと黙っている、追いかけてくる兵のいくつもの足音を聞きながら、郭嘉は力いっぱい走って馬へ飛び乗るとそのまま決して振り返らずに駆け出した。逃げられる場所などもうどこにもない、曹操の敗北によって大地のすべてが徐庶の国になってしまった。それでも逃げたかった。無理なのだとは分かっている、それでも、曹操から奪ったあの洛陽の城、そこで与えられた一室へ閉じこもってしまいたかった。一生陽の下に出られなくてもよかった。食事も水も、酒も女も何もいらない、死ぬまで漠然と時を過ごしたかった。
 やがて遠退く足音に、追手がかからなかったらしいことを知る。だが耳朶の奥には恐ろしい声が響いていた。殺せと、呪うように何度も繰り返して、激昂する。
「郭嘉! 君は俺の言うことを聞かなきゃならないんだ! 逃がすものか。郭嘉!」


 その夜、徐庶が訪れた。喉の張り裂けそうな程大声を出して叫んでいたとは思えない、そして曹操を下した覇者だとは考えられない、それくらいにおどおどとした様子で、おそるおそる口を開く。
「郭嘉……あの、ごめん、曹操のこと、言い過ぎたよ……俺がどうかしていた、許してくれないか」
 今更そんなことを認めて、どうなると言うのだ。郭嘉は徐庶を振り返ることをせず、じっと空を眺めていた。細い三日月の光ではこの夜は照らしきれない。消え入りそうに頼りなく浮いているそれはまるで、縄目を受けた曹操のようであった。あの男は自分をよく月に例えていたが、曹操こそそうであると郭嘉は常々考えていた。行く先の知れぬ真っ暗な夜にこそ明かりが必要なのだ。この暗い乱世で、曹操は皆を導く光だった。郭嘉のようにふらふらと知略だけに頼って生きていた人間には、何とも優しい月だった。
「郭嘉、本当にごめん。君に殺せるはずがなかった、本当に俺はどうかしていたんだ」
 だがその欠けることのない満月のようであった男も、あの瞬間はあまりにも果敢なく見えた。縄をかけその光を曇らせたのは間接的ではあるが自分だ。それでも助けられると言ったのにそれを消させようとした、そんな徐庶の行為を許せるはずもない。
 返事がないのにも構わず、徐庶は一人釈明を続ける。
「時々自分でも自分が、分からなくなって……ごめんよ、郭嘉。君にひどいことをしたいわけじゃないんだ」
 郭嘉は僅かに徐庶を振り返った。その不安定な情緒のせいで冷静さを装った狂人だとばかり思っていたが、徐庶にもそういう二面性のあるらしい自分への不安があるのだろうか。どうやら今は冷静な方の徐庶のようだ、怒りに目を吊り上げ叫んでいた先の徐庶とは違うものなのかもしれない。
「俺が間違っていた、ごめん、郭嘉……」
 鼻を啜り啜り徐庶は言った。こうしてひどいことをしたくないと謝りに来るくらいなのだから、約束は果たしてくれたのかもしれない、曹操は生かされたのかもしれない。そのために郭嘉は抱かれ、徐庶の名を何度も呼んだのだから、徐庶が真実まともな人間であるならばそうかもしれない。その内側に恐ろしい激情を秘めているのは疑いようもないが、本当は誠実な人間なのかもしれない。
「俺は、君がいないと本当に駄目なんだ……曹操が生きていたら、いつかまた君は俺の下からいなくなるかもって思ったら……つい。本当にごめん!」
 ただ極端に自分に自信が持てないのだ、きっと。ごめんと何度も繰り返されれば、脳の中に延々響いていたあの恐ろしい言葉も溶かされていくかもしれない。そもそも彼だって悪政を敷いていた過去があるとはいえ、覇者となるような、天に選ばれた男なのだ。まさか悪人がそうなるはずもない。
 郭嘉はそういう考えに縋っていた。ほんの僅かな希望が見出せるのなら、そこに縋るしかなかった。そうでなければ、心の奥底に湧き上がる恐怖を抑えられなかったのだ。曹操はもう、本当は。分かっているのに、考えたくなかった。
「いいよ、もう……徐庶殿、いいよ。顔を上げて」
「郭嘉……!」
 徐庶の淀んだ眼の中に涙が溜まり、わっと溢れた。ずるずると鼻を啜って胸に顔を摺り寄せるので、抱き締め返して撫でてやる他なかった。泣かないで、平気だから、わかってくれたのならそれでいいから、何度もそう言って、慰めてやる。図体ばかりが大きい、まるで子供だ、気持ちが安定しないこともまたそうだ。
 しばらくそうして抱き締めていると、落ち着いたのか徐庶がゆっくりと身体を離した。俯きがちな赤い顔でごめんと言ったのは、甘えたのが恥ずかしかっただけなのだろう。その身体を撫でてやっていた左手を恭しく手に取って、そこへ唇を落とす。熱っぽい、この熱こそが徐庶だ、郭嘉はぼんやりと思った。目もその唇も、恋に浮かされすぎている。
「ああ、本当によかった……郭嘉、君はもう、俺だけのものなんだね」
 万感の思いを込め、乱世の覇者はそう口にした。
 ただただ郭嘉という男を欲しがっただけなのだ。初めは何らかの意志を持って起ったのかもしれない、だがどこからかおかしくなってしまった。わがままで、駄々を捏ねて、気に入らないものは殺して捨ててしまう、徐庶はずる賢い子供だった。嘘ばかりをついて人を騙して陥れ、ひどい目に遭わせることに何の罪悪感もない、どこまでも軍師らしい卑劣な男だ。
 自分は完璧な軍師になるには、きっと甘い心が残りすぎていたのだ。戦乱の世の終わり、ようやく郭嘉は気が付いた。
「君の手は誰かを殺すためのものじゃない。汚しちゃ駄目なんだ、ようやく分かったよ。俺をこうやって抱き締めてくれなくちゃ……」
 無邪気な笑顔を浮かべる徐庶の身体から、ひどく新鮮な血のにおいがする。郭嘉は密かにぐっと唇を噛み締めた。激しい動悸がして、心臓がずるりと飛び出してしまいそうだった。やはり、この男が曹操を殺した。分かっていたのだ、何をしてももう曹操を助けられないのだと、本当はずっと前から分かっていたのだ。
 だからそう悲しむな、頭はそう言って強がり必死で励ますのに、あの淀みの中へ抵抗もせずに沈んでいく心を引き留められない。もう涙も出なかった。曹操は死んだのだ。殺されてしまった、消えてしまった。それに照らされてやっと生きていた郭嘉は、暗闇の中でさまようことしかもうできない。それならば何も考えない方が楽だ、何も感じなくなる方がずっと楽だ。

 6
 兵からの報告によれば、どうやら各地で賊が暴れているらしい。長い戦乱を終えた平和なこの世になってもなお、不満を持つ人間はいるのだ。どうやってももう自分には敵わないというのに、それが分からない愚か者はいる。徐庶は玉座に腰掛けたまま、重苦しい溜息を吐き出した。天に選ばれたこの覇者に敗北があるものか。柔らかな金糸が股座で蠢くのにくと喉を低く鳴らして笑いながら、思う。
 郭嘉はとても従順になった。徐庶が何を命じても投げ出さず従うし、他の将兵からの誘いにも大人しく応じている。反抗的で陰険な謀略家の郭嘉は死んだ。戦のない世の中の軍師などこんなものだろう、役割を与えられているだけましだと感謝して欲しい。喉奥まで陰茎を含んで呻く、その頬をそっと撫でてやる。
 こちらを見上げるその目は以前と変わらぬ色をしているのに、どこか艶を失ったようにも見えた。それが徐庶には面白くない。やはり、曹操の存在こそが彼を輝かせるのだ。色の褪せたような儚さをもつ金の髪も美しい、だが初めて目にしたそれにはもっと鮮烈な光があったはずだった。
 戦乱を治めた覇者となっても何もかもが思う通りになっても、つまらないものだ。喉をくすぐってやれば郭嘉は心地よさに抗わず目を細める。温かな喉から性器を抜き、そのまま頭を押さえ付けて射精してやると、降り注いだ白濁に顔をしかめることもなく黙ってすべてを受け入れた。滑らかな頬を重たい液体がゆっくりと伝い落ちる。それを軽く指で拭って口元へ持って行くと、ためらわずにそれを啜った。
 名を呼ぶと応じて見上げてくるその眸に感情はない。かつてのような強い輝きを持つそれが、こうして陰茎をしゃぶり見上げてくれたら。思うと再び下腹を熱が疼かせる。
 何と面倒な質の男だ、徐庶はぼんやりと虚空を見つめて自嘲した。玩具というのは手に入れるまでが一番楽しい。その新しさに心を躍らせるのが愉快なのだ。実際に手にしてしまったら後は飽きて捨てるだけだ、かといってこんなにも素晴らしいものを捨てる気などさらさらないが。できることならば、またあの輝きを取り戻させてやりたい。郭嘉は戦いの中にいる方がずっと良いのだ。そのまともすぎる優しい性根でしかし数多の人間を殺すよう命じて、その罪に思い悩むくらいが一番美しかった。懊悩するその顔が愛おしいのだ、企みに歪むその顔がなまめかしいのだ。生温い平和など郭嘉には似合わない。
「郭嘉……君の知恵を貸して欲しい。戦を始めよう、この平和を乱す賊を討つんだ」
 ちょうどいい、賊の正体を教えてやるのだ。そういえばかつては自分が彼らに賊と貶されたのである、運命とは何ともいたずらなものだった。
「曹操の残党を殺そう」
 郭嘉はその眸をゆっくりと瞬かせた。曹操、呟くその声はあまりにも幼い。徐庶は震えた。何とも聡い彼らしいやり方ではないか。曹操の生を諦め死を受け入れ、自分に真実仕えてくれたのだとばかり思っていた。だが違った、あえて忘れることで永遠にその忠誠を守ることにした。すべてを忘れて従順なふりを装って、この手の届かないところに曹操への思いをしまい込んでしまうことにしたのだ。
 そんなことを許すものか。心底から諦観を思い知るまでは何度でも引き裂いてやる。忘れても思い出させて、その惨めたらしい未練を引きちぎってやるのだ。
「あの賊共、殺してしまおう、俺の世を乱すんなら仕方がない。夏侯惇も夏侯淵も、賈クも張遼も、まだ生きているんだ」
 どの名が効いたのかは分からないが、瞬く眸に僅かに輝きが戻る。それを認めて徐庶は微笑んだ。こうして胎の内側に無遠慮に手を突き込んで掻き乱してこそ、真実この男を手に入れたと言えるのだ。
 怯えて震え出す、その視線が俯いてしまった。顎を掴んで上向かせ、その視界いっぱいに、曹操とは全く違う、この顔を映り込ませてやる。
「はは、かわいいな、忘れてしまったのかい。あの恐ろしい……曹操軍だよ、郭嘉。曹操は、君の本当の主じゃないか」
 やめてと手を振り払う力に確かな意思があった。小さく蹲って泣いている。そんなふうに項垂れてしまって、まるで服従を誓っているかのようではないか。
 郭嘉は先程飲んだ白濁をすべて吐き戻して口元を押さえてなお、溢れてしまう胃液を止められずにいる。嬌声とはまるで違う、あの郭嘉が吐き出すには汚らしい呻き声だ。それに嗚咽が混じるのは、嘔吐が苦しいからだけではないだろう。胃から上がった汚物を床へ撒き散らし、細い身体はぶるぶると震える。そうしてきっと後悔している、きっと憎しみにまみれている。
 徐庶は両手で顔を覆った。ようやく手にした、愛する彼のかわいそうな姿は、とてもではないが見ていられなかったのだ。かわいそうに、囁いてしかし、吐き出す溜息に密かな熱が混じる。
「ああ、死してもなお君を苦しめるんだ……郭嘉、曹操はなんて下衆だろう!」

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2013.09.30