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こどくの主_5


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 ひとつ間違いを訂正するとすれば、曹操という男は軍師の一人にこだわりいたずらに己の身を危険に晒すような愚者ではない。徐庶は曹操が同盟破棄を知れば、すぐさま二方面に展開していた軍で挟み撃ちをくらうと考えていたかもしれない、張魯や孫策を破った直後にこの国への攻撃に転ずると考えていたかもしれない、そのどちらもあの男の考えることではない。郭嘉には確信があった。
 張遼からの手紙によれば南蛮王は曹操に懐柔された。つまり曹操と徐庶により天下は二分されたのだ。あとはどちらが覇を唱えるか、直接ぶつかり合うしかない。曹操の懐から知謀を抜き出し、それでもなお攻められることのなかった月日、それを与えられた猶予と考えていたのであれば徐庶は愚かな男である。曹操や郭嘉が無為に日々暮らしているはずがない。今この時のため綿密に策を練っていたのだ。
 かつて郭嘉はこの男を使えると判断して曹操に同盟を勧めた。役に立つと思ったからこそ、期限を定めて力を貸した。徐庶が曹操の考えを見透かせていないとすれば、それらの判断が間違いであったと認めざるを得ないことになる。それも郭嘉にとってはなかなか癪な話ではあったが、曹操の代わりにこの男が天下を獲ってしまうことに比べれば、自分の矜持が傷つけられることなどまるで取るに足りないことであった。
 この一戦であの男の真価が分かる、とはいえどうせ愚者で決まりであろう。こうして真正面からぶつかることになってしまってあんな男が曹操に敵うはずもないのだ、ここに内通者もいるのだし。郭嘉は眼下に広がる渓谷を静かに見下ろしていた。至る所で散る剣戟の火花、降り注ぐ弓の雨に兵が倒れて行く。今は戦況も拮抗している、これくらいが想定内といったところだろうか。そろそろ事を起こすべきだ。
 張遼と密かに文を交わす中で徐庶が嘘ばかり吐いていたことを確かめたが、もしかすると愛しているなどという言葉だけは彼の真実だったのかもしれない。自分だけを見つめて献策をする、そんな郭嘉という軍師を徐庶は愛でていたようだった。そういう感情は一番人を盲目にするものだし、利用させてもらうまでである。幸いなことにその手の一連の行為には慣れきっていたし、そういうことを演じ切る自信もあったのだ。そのおかげだろうか、徐庶は愚直なまでに郭嘉の策を信じてくれた。
 曹操から仕掛けられるのを待つ必要はない。漢中の城へ乗り込むのである、同盟を一方的に破り怯える徐庶がそんな大胆なことをするとは思いもしない曹操は動揺することだろう。そのまま本陣を丘陵の城に敷いてしまえば、曹操は谷底から不利な城攻めをすることになる。果たして徐庶は城をとった。堅城だからと曹操が驕っていたという体裁で、奪われることを想定した寡兵を置いていたのだから当然である。そもそもそんなところで退くような弱者ならば郭嘉の力をもってしてもここまで生き残らせてやることはできなかったが。
「郭嘉様! こんなところでどうなさったんです」
「ああ……ごめんね。皆が無事かどうか、気になって」
 徐庶配下の弓兵隊をまとめる若い男に声をかけられ、郭嘉はそう言ってにこやかに微笑んでみせた。実際は動く機を耽々と窺っていただけではあるが、男はなんてお優しい方だと感涙にむせぶ。徐庶の軍には珍しいいかにも悪人といった感じはない好漢だった、曹操の兵らと比べてしまえば身なりはかなり悪いが。そういえば今まで弓兵隊の指揮はいかつい老将がとっていたはずだが、ずいぶん若い男に代わったものだ。まだ報告を受けていないが、こういう状況だ、もう既に死んでしまったのかもしれない。声をかけ返事を得られたのが余程嬉しかったのか、先よりも大きな声で男は言った。
「俺らは平気ですよ。本陣に戻って、徐庶様の傍にいて差し上げてください!」
「そうだね、そうしようかな。あなたも、働きに期待しているよ。がんばってくれ」
 男に背を向け、郭嘉は城へと引き返した。城内では徐庶が伝令の報告を受けているところである。こちらに気付くと、伝令兵を押し退け大股に歩み寄ってきた。骨の軋む程に抱き締められて顔が歪みそうになるのを耐え、郭嘉は大人しくその肩へ頬を擦り寄せた。
「郭嘉! どこへ行っていたんだ、心配したよ。怪我はないかい」
「うん、平気だよ。そこにいる彼から聞いているかもしれないけれど、押し負けてはいないね、曹操相手に」
 身体を離して頭の先から爪先までしっかりと確認をしてから、徐庶は満足そうに微笑んだ。恐らくは戦況に対してではなく、郭嘉が曹操を呼び捨てたことに対してなのである。彼に何をされてもこの後のことを思えば耐えられたが、自分が曹操への未練のない態度を取らなければならないのはつらかった。今も内心で徐庶に怒りを覚えたまま、にこやかに言葉を続ける。
「このまま何事もなくいけば、漢中は奪えるかな。この城は守り切れそうだ」
「ああ、そうだね。郭嘉、君のおかげだ!」
 郭嘉は彼をちらと窺った。疑う様子はない。となれば、あとはどの程度徐庶が臨機応変に将兵を動かせるのかにかかっている。しかし物量にしても質にしても曹操軍は圧倒的だ。郭嘉の力なしにしてここまで来られなかったであろう徐庶と、気に入りの軍師一人欠いたぐらいではびくともしない曹操である、すぐさま反応してみせたとしても、何の備えもないままでは対応することはできないだろう。
 それにしてもこの男、どれ程郭嘉という人間が好きなのだろうか。一体何を気に入られたのかと、郭嘉は他人事のように考えていた。軍師という生きものはこんなにも盲目的に信頼できるものではない。軍師はそれである以上、ある程度人を騙ることは仕方がないのだ。だから徐庶が偽りの言葉で張遼と自分とを罠にかけようとした事実について、郭嘉は特別何か思っているわけではなかった、曹操との信頼を貶すその内容そのものには腹が立ったが。頭を使って戦う存在である以上、そういう卑劣なことは仕方がない。しかしどうだろう、徐庶はもしかすると、郭嘉という男が嘘偽りをまったく言わない、何か神聖なものだと思ってはいるのではないか。内政や軍事にどのような考えを口にしても、徐庶は啓示でも受けたかのようにそれを実行する。
 素直に受け入れてくれるからこそ今回の策も成り立つのだ。だがそういう、心酔とか信仰としか言いようがない過激な愛情を受けることには、僅かながら恐怖を覚えていた。恋は人を盲目にするし、行き過ぎれば狂気に走らせる。人より少し一途すぎるきらいのある徐庶の性格を鑑みるに、簡単にその一線を越えてしまいそうなのが恐ろしいのだ。先日怪しいまじないを受けた身としてはそう思っても仕方がなかった。
 だからこそ、早く逃げなくてはならない。失敗をしてはならない。そのために与えた猶予であった。準備は抜かりない、もう行動を起こすだけだ。
「ね、徐庶殿、私はまた少し戦場を見てくるよ。相手は曹操だ、いつ、どんな手で掻き回されるか、わかったものではないし。できるだけ状況を把握しておきたいんだ」
「そ、そうか。あの、郭嘉、気をつけて。いくら君でも曹操はきっと容赦しない……恐ろしい男だ」
 郭嘉は徐庶に見守られながら城を出、人目を忍びながら馬を駆り、丘の西に流れる川を渡った。対岸には漢中の城を見下ろす小高い山がある、昨夜の内にそこへ兵を駐屯させるよう指示していた。この高所から城へと一気呵成に迫り押し潰す、張遼の騎馬隊である。
 張遼と顔を合わせるのは久しぶりだが、徐庶に異常なまでに懐かれ精神的に参っているせいだろうか、以前よりもいっそう勇ましい丈夫に見える。愛馬に跨るその姿を見、郭嘉は眩しく目を細めた。
「郭嘉殿、御無事であられたか!」
 昂然とした張遼の言葉に応じ、皆へ向けてしっかりと頷く。そこへ辛辣な言葉を投げ込んだのは彼らがここに至るまでの行軍に協力した陳羣だった。
「張遼殿にこのような手間を取らせるとは。ですから、郭嘉殿の振る舞いは目に余ると言っておるのです」
「はは、ごめんね、陳羣殿。そう言いながらも、しっかり来てくれるのだから、やさしいよね」
 からかうようにそう言えば、馬鹿を言うものではないと叱られ、真っ赤な顔をふいと逸らされてしまった。ともあれ、彼らのおかげで片はつくだろう。崖下から攻め来る曹操を相手にするだけで徐庶は精いっぱいだ、鬼神張遼の騎馬隊に押し込まれては一溜りもない。この場で徐庶を討ち、その領土を一気に曹操のものとする。そうなれば天下を掴むことができる。そして今ようやくその覇道に欠かせぬ郭嘉が戻ったのだ。皆がそれぞれに高揚していた。
 郭嘉が合図をすれば、張遼が雄々しく吼える。双鉞が指し示すその先へ、獣の叫びに応じた騎兵が一斉に地を蹴った。一糸乱れぬその動きはあの男がいるからこそなのだろう。郭嘉は陳羣と共にそれを追った。人馬一体となって駆けて行く黒い獣の一団は、地鳴りと共に山を下り逆落としをかける。谷底の曹操軍本隊は張遼らの姿をいち早く認め、その攻めをますます苛烈なものとする。徐庶の手持ちの兵はそちらに応戦するのも危ういだろう、このまま行けば勝てる。郭嘉は唇を固く一文字に引き結び、怒涛の勢いで駆けて行く騎馬たちに何とか追いつき走っていた。巻き上がる砂埃で視界が霞むが拭うこともできない、両手で手綱を握っていないと落馬してしまいそうだった。飛び交う怒号から察するに先頭の騎兵は城門前に構えた拠点で交戦しているのだろう。鬨を作る張遼は遥か遠い。馬首へ縋り付き辺りの様子を見れば、陳羣も必死で食らいついている。郭嘉が徐庶の下へ仕えたことでその穴埋めをさせられているらしい、あの男は政治にしか関わってこなかったしこういう場には不慣れだろう。気遣ってやりたくもあるが、郭嘉も軍師であるし、こうも前線に出張ったことはなかった。皆の勢いに負けじと馬を走らせても前を往くのは歴戦の勇将、そして汗馬である、敵うはずはない。
 既に曹の御旗が揺れる城門前の拠点へ辿り着いたところで、ようやく張遼と合流を果たす。先行する騎馬が瞬く間に城門を破り、城内へと雪崩れ込んだ。
 もう長くは持つまい。城から山へ慌ただしく往復した身を気遣ってくれる張遼に平気だと頷きを返しながら、郭嘉はぼんやりとそう思った。徐庶は無能ではない、才知の感じられる男だ。だが曹操に敵うはずがないのだ。この大陸の誰しもがあの男には従属するしかない、あれはそれ程の大器だ。直と徐庶の首がもたらされる。
 そう思っていた、郭嘉の鼓膜を揺らしたのは勝利の鬨の声ではなかった。馬の嘶きと悲鳴だ。状況を把握できない兵たちがどよめいている。予想だにしなかった何かが起きているのだ、軍師として冷静にいなければならないというのに、あまりにも多くの断末魔が全身を凍てつかせて動けなくする。それでもどうにかしなければ、震える息を呑み込み口を開くがしかし、言葉にならなかった。
 地に伏せる兵馬、呻く将兵、辺りに濃い血のにおいが漂う。鼻を突くそれに吐き気を覚えて顔を歪めた。口元を覆い、波立つ胃液を必死で抑えて前方を睨む。前線の部隊は壊滅していた。死屍累々の地獄の奥底で城門の奥からゆらと緑の影が覗く。無事だったのだ。やられた。間違いなかった。郭嘉の裏切りなど少しも考えていないように陶酔しきった顔をしていたというのに、男の後ろで無数に光る、あれは矢の切っ先である。兵を伏せていた。すっかり見慣れてしまったがたいのよい老兵が率いる弓兵部隊だ。徐庶は軽く手を上げて弓を下げさせると満面の笑みを浮かべ、声を張り上げた。
「流石は郭嘉! 策は大成功だね、君の言う通り、兵を伏せていてよかった!」
 郭嘉は呆然とした、軍師として頭を使って考えることを生業としてきたというのに、徐庶が笑顔で言い放った言葉が今は何ひとつ理解できなかったのだ。その言葉は先の悲鳴よりも大きな動揺を生んだ。一瞬にして周りの兵に僅かながらでも疑念が宿った、それを郭嘉に最も思い知らせたのは、傍らで息を荒げていた陳羣であった。
「か……郭嘉殿、まさか」
「ち、違います! 陳羣殿、わ、私は」
 郭嘉もまた動揺してそれを笑い飛ばせなかった、真摯に違うと言い切れなかった。それが決定的であった。半信半疑の小さな言葉でも口をついた瞬間、一瞬にして波紋を広げて大きな波を作る。頼もしいはずの兵たちの不信の念が身体中へ突き刺さる。違う、との声が掠れて消える。頭が割れそうに痛かった。息が乱れてまともに入ってこない。倒れてしまいそうだった。
「さあ郭嘉、そこは危ないよ、こっちに来るんだ」
 この男は兵を伏せることだけでなく、そこまで考えていたのだろうか。曹操の下で懸命に築き上げた将兵からの強い信頼を、一瞬にして崩壊させた。転がる亡骸と共に地へ叩き落としてしまった。
 震えながら振り向いて見た張遼の目にはあまりにも強い瞋恚が宿っている。それが自分へ向けられているのか、それともまだしっかりと徐庶へ向けてくれているのか、郭嘉にはもう分からなかった。張遼殿と縋るようにその名を呼んだはずなのに、ほとんど音にならなかった。
「他ならぬ郭嘉殿が、我らを裏切るものか」
 張遼が再び吼える。静まれと一喝する形相はまさに鬼であった。その迫力に、兵たちが正気を取り戻し始める。徐庶が忌々しいとでも言わんばかりに顔を歪め手を振り上げ、矢を射かけようとする。
 郭嘉もまた兵と同様に僅かに平静さを取り戻し、内心で舌を巻いた。張遼は自分を信じてくれた。兵も回復しつつある。だが、一度浸透しきった動揺はそう簡単にすっかり取り除けるものではなかった。やはり、してやられたのだ。これ以上は兵を無駄に傷つけることになる。眼前の惨状がいっそう郭嘉を冷静にさせた。今あれ程の精鋭騎兵を失ったのだ、これ以上の被害を広げるのはまずい。最後に勝ちを得るためにも、今は負けを選び、張遼たち騎馬隊を少しでも多く生き残らせる必要がある。決意するしかない。
「逃げて」
 震える声で告げる。
「逃げるんだ、張遼殿、ここはもう退いて。どうにもならない。私の負けだ」
 張遼は静かにひとつ頷いた。ずっと、本当に心底から信じてくれていたらしい。すべてのことは何か郭嘉の考えがあってのことだと思ってくれている。きっと徐庶に追い返されたときもそうして身を引いたところはあったのだろう。何も問わず、責めず、逡巡は一瞬だ、兵たちに撤退を指示する。いつまた徐庶がその弓を放つのか分からない、先の言葉をそのまま受け取るならば郭嘉の身を案じてであろうが、何やら躊躇しているこの隙にできる限り遠くまで逃げてもらわなければならない。
「陳羣殿、不慣れかもしれないけれど、皆を導いてあげてほしい。私の代わりをさせるなんて、申し訳ない」
 陳羣は真っ青な顔で頷いた。自分のせいだと責めているのかもしれなかった。それこそ、こういうときに疑われてしまうような普段の振る舞いがいけなかったのだから、この男が悩む必要もないのだが。これで意外と優しいし、後悔をさせ続けてしまうのかもしれなかった。
 項垂れながら、徐庶を侮りすぎていたのだと痛感した。自分の助けが大きかったという事実は確実にあるが、それだけではなかったのだ。軍師らしい巧みな用兵、荒くれのようだとはいえ勇猛な将を揃える手腕、そして自身の優れた武勇。成都という要害を奪ったのだ、何故そんな男を軽視できたのか。
 郭嘉は歯を食い縛る。ようやく気が付いた、徐庶が郭嘉に対して抱いていたらしい感情を自分も曹操に抱いているのだ。信じた男こそが天に選ばれた存在だと疑わず、それに仕え侍っているという優越感に浸っていたのだ。驕っていた。見下し、侮っていた。徐庶は確かに、才知ある人間だった。
 徐庶は甘い言葉をかけていたが、裏切り者の末路など死しか残されていないではないか。潰走する騎馬隊を見送り、郭嘉はその場へ崩れ落ちた。曹操が誇る天下の軍がこの様だ。もう届かぬことを知りながらごめんなさいと呟いて、力なく目を閉じる。


 襄陽城に戻り、玉座へ腰かけた徐庶の前へと引き立てられた郭嘉は、両手を後ろ手に縛られ屈強な兵士二人に脇を固められ俯いていた。あの裏切りでは何と詰られても仕方はないし、首を刎ねられるのだ、自分の命などもはやどうでもよかった。それよりも張遼や陳羣たちはあの前線から逃げ切ることができたのか、そればかりが心にあった。自分が死んでも曹操は、一応悲しんでくれるかもしれないが、歩みを止めたりはしない。夢を見ているだけなのかもしれない、それでも、あの男ならばいずれ徐庶を打ち破ってくれると信じている。郭嘉がその行く末を見守れなくとも、曹操はやり遂げる男に違いないのだ。死はちっとも怖くなかった。思いを繋げられるのなら、それで十分だ。そう思うしかなかった。
「郭嘉……俺を騙していたのか」
 徐庶は悲しげに顔を歪めながら立ち上がった。疲れ切った声音でそう言って、吐き出す溜息に空気が淀む。どうせ死ぬのだ、茶番のようなこの男の言葉に付き合っていたくなかったが、自由はないのだから自分にはどうしようもない。そういう郭嘉の思いを知ってか、焦らすようにゆったりと傍へ歩み寄ってくる。
「擦り寄って、接吻をして、その身体を抱かせて、あんなに喘いでおいて、こんなにも夢中にさせておいて、ずっと俺を嗤っていたのか!」
 頭上から浴びせかけられる罵声に、郭嘉は目を閉じた。そんなものは徐庶の勝手な勘違いだ。約束を破り仲間との仲を引き裂こうとした男など、真に心の底から愛するはずがない。そういう人の騙し方だってあるものだし、郭嘉は軍師なのだから、徐庶が一人浮足立っていたとしか言いようがない。そうやって勝手に人を呪って、殺せばいいのだ。郭嘉がいなかった頃のように悪政でも何でも敷いてしまえばいい。そうすれば正義が曹操に与えられ、民からの強い支持も得られる。曹操はいっそう徐庶を攻めやすくなるだろう、
 尻が軽い、不貞だと口汚く罵られても気に留めずただじっと俯いていると、ふと徐庶の身体が視界へ入った。屈み込んだのを認めるや否や、顎をつかまれ無理やり顔を上げさせられる。とうに生を諦めている郭嘉は気怠くそれを見つめ返した。どれ程憎しみに満ちた表情をしているのかと思っていたが、その目はしかし欲情して濡れていた。そうしてうっとりと、囁くように、言う。
「ああ、君は最高だ……」
 笑っている、その唇が寄せられた。下唇を食み、犬歯を突き立てる。小さくも鋭い痛みがあった。ぷくと溢れた血の珠を啜り、徐庶がふ、と息を吐き出した。傷付けられた唇を濡らす熱く湿った吐息だ。甘いと恍惚として呟く、その不快さに顔を歪めながら見上げた男の顔は赤く染まり、感極まってしまったようだった。
「その強かさ。狡猾さ! 何て素敵なんだ、郭嘉、やっぱり君が欲しい、手放すものか!」
 郭嘉は自分の顔が引きつったのを自覚した。この男は、計り知れない。認めざるを得なかった。むしろ理解したくなどなかった、きっと徐庶というこの陰鬱たる偏屈は、自分のような軍師とはいえ至極真っ当な人間が理解できるようなまともな性質ではないのだ。
「裏切り者をそのまま手元に残したがるなんて。徐庶殿、あなたはおかしいよ……」
「君がそんなことを言うのかい。しかし、確かに……一応、分かってもらっていた方がいいかもしれないな」
 徐庶は軽く笑った後、興味なさそうに冷めた声でそう言った。情思が安定していないのだ、恋らしいものの興奮に身を任せ抱擁したかと思えば独裁者のような冷酷さで突き放す。そうして翻弄する、惑わすことまで考えているのだろうか、郭嘉は震えそうになる身体を叱咤し、朱が滲む唇をきつく噛んだ。管からどっと押し出された血で錆のような味がする。
「ああ……そうだ、これがいいな」
 ちょうど今思いついたかのようにわざとらしく手を叩いてみせたが、そのうそぶくような言い方からして郭嘉を縛り上げた時点でそういう考えに至っていたに違いなかった。郭嘉を押さえていた男の一人へ目で合図をして、厳かな口調で告げる。
「国を裏切ったことなんて、正直どうでもいいんだ。悪知恵の働く君はかわいいが、悪戯をして、俺を騙していたことには、罰を与えないといけないね。もう二度としないと約束してくれるのなら……考えてもいいんだが」
 約束などと、馬鹿なことを言う男だ。郭嘉はふいと視線を逸らした。徐庶はいつも冷静なふうを装っているが、内面に猛るどす黒い炎でいつも昂ぶっている。早々に燃え尽きてしまえ、そう毒を吐けたのは残念ながら内心のみだった。出来るなら君にはひどいことをしたくないなどと、人の思いを散々に弄って乱暴をしておいて、どの口が言うのか。反抗する気持ちは確かに伝わったらしい、徐庶は大仰なしぐさで溜息を吐き出すと、悲しそうに首を振った。
「やっぱり、躾けないと駄目か。仕方ない、そういうことなら教えてあげよう。俺を騙したらどうなるのか」
 先の男が一人の男を連れて戻ってきた。轡でも噛まされているのか苦しげな呻きだけが聞こえたが、その声は聞き慣れていたから分かってしまった。あまりにも細かくて神経質で、自分を目の敵にして小言ばかりを言うあの声だ。
「陳羣殿」
 郭嘉は呆然として呟いた。逃げきれなかったのか。汚れた衣服の襟を掴まれ乱暴なやり方で徐庶の下へ放り投げられたそれは、間違いなく陳羣であった。
「君の友達なんだろう。戦慣れしていないのか、少し追い立てたらすぐ捕まったそうだよ」
 全身に怖気が走った。あまりにも恐ろしい確信が強く胸に迫っていた。この男は、郭嘉にはひどいことをしないと言ったのだ、これ以上に惨いことはなかった。
 剣を手にした徐庶にやめてと言おうとするのに、喉が震えて音が出ない。同じく自由には言葉を発せない陳羣がこちらを見つめた、恐怖に見開いたその瞳孔が、郭嘉の眸を確かにぐさりと突き刺した。網膜を貫いた、それが脳裏にまで赤く焼き付けられる。声のない断末魔があがる、代わりにごとと重たい音がした。息を呑む。首から落ちた反動で一度だけ小さく跳ねた頭がしかし、その重さで動かなくなった。後れて傾いだ身体から、じんわりと血が溢れてくる。取り残された鼓動に合わせるようにどく、どくと広がるそれに膝が浸かった。まだ体温の残った血液が肌に染み込んでいく。その熱を遺そうとして、肌理を伝っていく。
「君のせいだ」
 徐庶が言った。
「君が俺を騙すからいけないんだ」
 剣にべっとりと付着した血と脂を拭いながら、そう冷淡に口にする。
 ふと血溜りに小さく波が起きた。微かな音を立てて落ちた、これは一体何なのか。頬の濡れる感触、鼻のつんとした痛み、目尻の熱さ。泣いているのだ、自覚して、嗚咽が止められなかった。絶え間なく落ちる涙で乱れる水面を、徐庶がぐちゃと踏みにじった。
「どうして、こんなこと」
「さっき言っただろう、君が欲しいからだよ」
「な、なに。そんなことのために……本当に?」
 平然として頷く男に罪の意識はないのだろうか。人を殺すことが悪だなどというきれいごとは郭嘉には到底言えないが、それにしてもやり方はあるはずだ。こんなふうに尊厳すら切り刻んでおいて、その理由があまりにも馬鹿げている。嘘だとしてもひどすぎた。絶句する郭嘉を尻目に、徐庶は言葉を続けた。悪びれる様子など当然ありはしないし、してやったと喜ぶような様子も、悲しむような様子もない、ただ淡々として言う。
「昔から言うじゃないか、美しいものは人を狂わせる。そういうもののためなら、男はいつだって争うものだ」
 国や城の興廃を賭して争わせる、それは美女に言えることだろう。この男は一体自分に何を見、重ねているのか。郭嘉は震えた。散々分からない、理解出来ないと思った男であるが、いよいよ気が狂っているのだと思わざるを得なかったからだ。
「あ、あなたの考えていること、わからないよ、何を言って……」
 おそるおそるそうして口を挟むと、徐庶は眉を跳ね上げ怪訝そうな顔付きになった。
「君が? まさか、俺のことを分からないなんて妙だな。あまり興醒めさせないでくれ」
 血溜りの中へしゃがみこみ、こちらを覗き込んでくる。両頬を包み込む手のひらが優しくて、それがひどく恐ろしかった。この男は本当に、恋慕に狂ったのだろうか。郭嘉という人間を愛してしまって、一線を越えてしまって、こんなことになってしまったのだろうか。
 元から目的のために民を蔑ろにするようなところがあったから、そういう素質は十分過ぎる程に持っていたのかもしれない。きっとその性根が悪に染まっているのだ、だからこんなことができるのだ、転がる首の見開かれた目がじっとこちらを見つめている。突き刺さる視線が閉じた瞼をじりじりと焼く。あの男は関係ないというのに、こんなやり方はあまりにも惨い。
「郭嘉、ああ……君は美しいよ。国も城も全部傾かせる、主を駄目にする、それは素晴らしい素質だ」
 返り血に濡れた親指がそっと頬を撫でた。ぼんやりと開いた目に映る、徐庶の笑みの何と穏やかなことか。
「君がいると争いが起きるね」
 逃れるように、郭嘉は揺れる眸を彼から逸らした。曹操の覇道のためだと信じ次々戦を仕掛けてきたのだ。袁紹を討つよう命じた、曹操はそれに応えてみせた。協力すると言いながらその内情を探るため徐庶に仕えた、荊州を中心として猛烈に戦火が広がった。帰さないと罠をしかけられても屈さず、国へ戻るためだけに漢中に戦を起こし利用した。徐庶の言う通りであった、郭嘉は常に戦乱の中心にいた。
「そんな、つもりは」
 否定しながらも思う、確かに、そういうことなら陳羣を殺したのは自分であった。郭嘉は項垂れた、そうしようとする頭を無理やりに上げられ徐庶の眸と見つめ合った。そこでようやく気が付いた、この男の目は朽ちた葉の色をしている。孤独な彼に似合いの、あまりにも廃頽した淀みの色であった。
「いいんだ、俺は責めているんじゃない。単純に、聞きたいだけだ」
 そう断って口付ける、あまりにも優しいそのやり方に気持ちがぐらついた。軽く触れるだけの接吻を角度を変えては何度も繰り返す、恋しい人と戯れるような甘さがあった。本当に徐庶に愛されているらしいのだ、郭嘉は動揺する。愛されたことは多々あるが、こういうやり方を知らない。あまりにも一途で、そのせいで歪に形を変えてしまった、こんなものまで愛と呼ぶなどとは思いもしなかったのだ。
「多くの人を巻き込んで、戦を起こして……誰が生き残るんだろうな、残る一人が俺か、曹操か。今更、また別の誰かかは、分からないが。それからどうするつもりだい」
 そんなつもりはないのだ、そう繰り返す唇は、再び徐庶のそれに触れてしまいそうだった。互いの吐息を感じる程に近い距離で見つめ合うと、彼の眸に自身の姿が映っていることまでも窺える。淀みの奥に沈んだそれが、静かに手招きしているようだった。
「俺や曹操に、何千何万もの命を喰らわせて、そこまでして呪いたい相手でもいるのかい」
 そう言って自嘲するように笑った。そうして呪われるのは自分自身だろうという自覚があるらしかったから、郭嘉も静かに頷くだけであった。正直だ、と徐庶は嬉しそうに笑う。
「それでもいいよ、俺には君が必要なんだ」
 この乱世、最後まで残り立つのはたった一人だ。それは間違いなく曹操と徐庶、そのどちらかになる。徐庶の言う通りに今更だ、ここから情勢を覆すことのできる才知を持つものはいまい。
 どちらか一人、選ばれた方の男が、無数の命を礎にして平和を築く。選ばれなかったもう一人は殺される。郭嘉は選ばれるための手助けをしてきた、どちらに対しても。曹操に対しては自発的、徐庶には結果的にそうなった、それでも、たった一人を導くために戦を生み出し続けた事実は変わらないのだ。
 もうどこへも逃げられないのは分かっているのだろう、そう言っているのだ、あの泥の中の自分は。郭嘉自身どこか諦めていた節があった。平和の世まで生き残っても、人を殺すよう命じてきた記憶に苛まれるに違いない。犠牲になった人々の怨嗟に襲われるに違いない。目の前で絶命する、あの眼が脳裏に閃いた。こんなふうに、夢の中で、延々と。それこそがこの呪われた乱世を主導してきた者の宿命である。
 曹操と徐庶の衝突は避けられない。曹操に尽くすため逃げようとすれば戦が起こり、また自分ではない誰かが犠牲になる。郭嘉は思った。そういうことならば、もう動かない方がいいのだ。呪はすべて自分一人に降りかかってしまえばいい、それでこのおぞましい世が終わって平和になるのなら、どれだけ苦しもうと構わなかった。このまま徐庶に仕え続けた方がいい。徐庶から逃れ曹操を勝たせようとせず、早く戦乱を終わらせてしまう方がいい。そして最後の一人を決める直前、曹操をこの坩堝から掬い上げてやるのだ。郭嘉が曹操のためにできることは、もうそれくらいだった。
「徐庶殿……私は」
「改めて言うよ。郭嘉、俺に協力してくれないか」
 郭嘉の言葉を遮って、徐庶はゆっくりとそう言った。諾と頷かれる、その確信を持った疑問符のない誘いであった。
 郭嘉は顔を強張らせる。この乱世を頭脳にだけ頼って生きてきたからこそ分かっていた、頷くしかない、曹操のためには。だが心の一番奥底がそれを拒絶する。頭ではこの忠節を尽くすためにこそ徐庶に仕えるべきだと分かっているのに、理論で飾らぬ本能のようなその深層が、そんなことは裏切りだと自身を詰る。相反する思いに両側から責められては簡単に返答などできるはずがない、思いながら、とうに答えは出ているのだ。徐庶が再び口付けた。促すようにしてくすぐられた唇が従順に口を開け、その舌を受け入れる。歯列をなぞり動きを止めたそれに、自身の舌が絡み付いた。差し込まれたその表面をざらと擦り上げ、先端を軽くつついてやる。舌裏を探って細い筋を舐りながら、わざと水音を立てた。こうなったらとことんまで媚を売ってやれと命じているのだから、何と潔く思い切った思考だろう、自分のことながら郭嘉は深く感心した。
 離れていく男の唇を追うように思わず突き出した舌を、いやらしいと徐庶が笑う。だらと零れた唾液がどちらのものか分からないのは、もうそんなことなどはどうでもいいからに違いなかった。気に入られるしかないのだ。もう、どうか殺さないでくれと無様に請うしかないのだ。矜持などいらない、形振り構わぬやり方でとにかく取り入り願うしかない。
 徐庶が軽く目配せをすると、身体を押さえつけていた男と陳羣を連れてきた男とが、のそりとその重たそうな身体を持ち上げた。ようやくかとでも言わんばかりににたにたと笑いこちらを見つめる眼に挑むようにして、郭嘉はぐっと顎を引いた。黙って乱暴されろというのだろう、玉座へ戻った徐庶はわざとらしいあくびをひとつ、試すようにこちらを見下ろしていた。
 男の一人が急いた手付きで下穿きを下ろす。目の前にぼろんと放り出された陰茎がすえた臭いを放っていた。不気味に黒光りするそれは長さこそないもののその身体に似て太く、口に収めきれるかも分からなかった。郭嘉は軽く唇を噛み締めてから、大きく口を開いてそれを喉奥へと迎え入れた。鼻を突き上げる生臭さに涙が浮くが、吐き出すわけにはいかない、徐庶がこういう相手に対してでも躊躇なくしゃぶりついて受け入れる淫乱を求めるというのなら、それに応じてやるしかないのだ。
 口腔へ溜めた唾液を舌でまぶし潤滑油代わりにすると、歯を立てないようにして激しく頭を前後する。性器へ吸い付くように頬を窄めれば、男の低く汚い喘ぎ声が漏れた。限界まで口を開けているせいで顎が痛む、陰茎を吐き出し手で扱いて少し休みたかったが、頭を押さえ付けられそれも許されなかった。口淫を続けながら鼻からふうふうと必死に息をして、その度に異臭に顔を歪める。
 残った男は最初こそ郭嘉の身体を押さえ付けたままであったが、反抗する気がないのを認めると、下腹に手を伸ばしてきた。ふらふらと肌の上をさまよっては、股座をぐと鷲掴みいたずらでもしているかのように笑う。そういういやらしい笑みなど目にしても不快になるだけだ。目を閉じると、大人しく奉仕している姿が気に入ったのか、陰茎を口に含ませたままの男がゆらゆらと腰を揺らした。根元まで吸い付くと同時にぐっと腰を使われ、串刺しにされる。
「んぐ、っぐ、う」
 思わず漏らした呻きに、下卑た笑い声が向けられた。くるくると円を描くように尻をなぞっていた手のひらに急に力が加わったかと思うと、絹の裂ける音がする。振り返って確かめるまでもない、下衣を破られたのだ。直に尻肉へ触れ、後孔をくすぐる濡れた感触。舌で探っているのだろう、思い当って寒気がする。荒い鼻息がすぐ傍から吹き掛けられるのも気色悪い。気に入りの服だというのに、などとどうでもいいことを思ってそれをごまかそうとするが、思考を散らそうとするのを許さないと言わんばかりに口を犯す男が腰を突き出してくる。その動きに応じるようにして、窄まりへと舌が突き立てられる。
「んんっ! ん、うぅ……」
「本当に、君は仕方がないな……郭嘉、そんなところに接吻されて嬉しいのかい」
 蔑む言葉にかっと身体が熱くなった。見つめられることに興奮するような性質ではない、屈辱に身体が燃えた。矜持など必要ないし自分には存在しないのだと思う、それにこだわり散ろうとする将など愚かだとすら感じることがある、だがやはり駄目だった、傷つけられれば胸は確かに痛む。願いをかなえるためならば、曹操のためならばと言い聞かせ続け、思えば色々なことをしてきたものだ。無感情に通り過ぎてきたそれが今更ながらに胎を焼く。
 後孔を舐る男がじゅるといやらしい音を立てた。背が震える。舌と共に差し込まれた指が中をぐにぐにと押すように探っていく。見つけられてしまう、ぎゅと目を閉じると目尻から水の溢れたような気がして、尚更胸がぎりぎりと痛んだ。言葉も指も舌も陰茎も、すべてが鋭い刃のようにこの身体を責め立てる。男の性器を受け入れながら、ああと郭嘉は微かに呻いた。零れた吐息に感じ入った男に責められる、反射のように締まる窄まりを嗤う男に抉られる、これが呪を産んだ者へ当然のように還ってくる痛みに違いなかった。
 指先がしこりへ触れ、耐えることもできずに背筋が仰け反る。口に咥えた亀頭が上顎をざらりと擦り上げて行く。眼の裏におぞましい光がちらついた。殊更低く楽しげに空気を揺らしたのは徐庶の笑声だろう。
 後孔からずるりと舌と指が抜かれる喪失感など覚えたくもないのに、慣れきった身体がねだるように口を開くのが分かった。宛がわれる熱く濡れた感触に喉が鳴る、蠢く口腔に男が喘ぐ。肉のぶつかる下品な音を立てて同時に奥を貫かれれば内臓が破れてしまったような気がして、寒気とも快感ともつかない何かが身体中を走り抜けた。
「あぁっ、ん、んぐ、お、っご」
 絶えず出入りする性器に呼吸もままならない。ぞくぞくとする、玉座からこちらを見下す徐庶の興奮に濡れた視線が肌を刺している。その半開きの唇から零れる荒い呼吸すら聞こえるようだった。結局は被虐の暗い喜びに震える単純な人間なのだ、郭嘉はよくよく分かっていた、こんなどうしようもない身体にしたのが曹操なのだから忘れられるはずもなかった。こうして誰かに犯される、それを見つめる熱っぽいあの眸だ、あの眼だ。それを向けられているのが堪らなかった。それと同じものをこんな男共がするのが許せなかった。そんな思いなどどうにもならないのだ、口でも尻でも陰茎に貫かれてしまえばどれだけ嫌がろうと屈辱だろうと死にたくなろうと、感じ入って淫らに喘ぐだけなのだ。そういう自分を曹操が愛でたのだから仕方ないではないか。郭嘉はぼんやりと涙を流した。
 膨れ上がる熱に限界が近いことを知る。前髪と腰とを鷲掴みにされ、思うままに射精される。呼吸すら許されないまま上に下に注ぎ込まれる白濁に全身が隅から隅まで汚し尽くされたような錯覚、そうではない、事実だった。他の誰かのためとはいえ顔も名も知らぬような男に大人しく抱かれるのだから、そんな身体が潔白のはずがない。
 汚れたまま二人から放り出された身体が、ようやく与えられた酸素に激しく咽た。喉の奥から零れ落ち床を汚す精液にめまいがして、嫌なものが込み上げてくる。胃の奥から食道を上って襲い来る衝動に従うわけにはいかない、汚物にまみれた姿を晒したくなどなかったし、そのせいで笑われたくなかったのだ。しかしそうして必死で耐えていても、吐き気を抑えようと乱れた息を吐く度、すっかり開いてしまった後孔がひくひくと動いてだらしなくまた白濁を零してしまう。歯を食い縛って、代わりに溢れる涙がその重たい体液の中へと落ちていく。
「郭嘉。がんばったね」
 そう言って目を細め、徐庶が近づいてくる。頭を撫でられたかと思うと、簡単に身体を抱き上げられてしまった。女にするような恥ずかしい抱き方から逃れたくとも、散々弄られた全身にはほとんど力が入ってくれない。
「ああ、思った以上に軽いな、これからはもう少し食事を増やそうか」
 そう言って笑いながら玉座へ腰かける、その身体を跨るように座らされた。身体を支えようと徐庶の両肩へ手を添え、戸惑いながら彼を見下ろす。
「郭嘉、君は俺の願いをたくさん聞いてくれたんだ。俺も君の願いを叶えてあげたい」
 下からじっとこちらを覗き込む、その眼にくらくらする。そのままひとつ接吻をして、徐庶は郭嘉の言葉を促すように唇へ触れた。
「ほ、ほんとうに、約束を」
「ああ、約束する。きっとだ」
 郭嘉の願いなど、曹操の覇道の完遂以外にあるはずがない。だがそれはこの男に願ったところでどうしようもないことである。本当に徐庶が約束してくれるというのならば、願うことはただひとつだ。そのために今の屈辱に耐えたのである。
「曹操殿を生かしてほしい……」
「分かった。約束だ、心配しなくてもいい。君がいれば、きっと曹操は言うことを聞いてくれるし、助けられるよ」
 曹操には生きていて欲しかった。どれ程の恨みを買っても、あの男に呪われることだけは嫌だった。曹操が自分を責めるはずはないと分かっていながらも、あの男を壺の中へ埋めるのは嫌だったのだ。被害を極力出さず最後の戦を終わらせ捕虜とした曹操をどこか遠くへ生きたまま逃がして、乱世の終結とする。
 分かっていたつもりだったが、改めて強く思う、自分も含め、誰もが救われるような明るい道はもうないのだ。それでも今更どうしても曹操を生かしたいなどと我侭を言うのならば、きっとまた報いを受けることになる。ここに来るまで多くの犠牲が出たのに目を瞑っていたのだ。曹操にその手がかかってようやく、恐ろしい呪に加担していたことを自覚した。あまりにも遅かった。それでも、どれだけ罰を受けることになっても、曹操にだけは死んでほしくないのだ。
 徐庶はもう一度約束だと呟くと、誓うかのように唇を吸った。それに応じながらも、下腹へ伸びてきた手に腰を引いてしまう。犯されながらもそこが熱を持っているのを知られたくない。しかし嫌がるその態度が気に入らなかったらしい、徐庶は眉をひそめた。
「郭嘉、全部君次第なんだ」
 その宣告に縛られてしまう。徐庶が下衣を乱すのを成す術なく見守った。自分に向けてしっかりと媚びてみせろと徐庶は言うのだ。身体はもうひどく重かったが抗うわけにはいかない。尻を持ち上げ、先の光景を見ていたせいなのかすっかり勃起した徐庶の陰茎に軽く手を添えた。僅かに腰を落とすだけで、暴かれたばかりの後孔はずるりと亀頭を飲み込んでしまう。
「ん……っふ、うぅ」
 強張る身体が先端だけを締め付け、男の呻きを誘った。早くしろと促すように軽く腰を動かされても、まともに力が入らない。開かれた後孔がひりついて痛む。どうしても歪んでしまう顔を俯いて隠し、ゆっくりと体重をかけていく。肩へと縋る手に強く力が篭った。衣服越しとはいえ傷つけただろうか、ちらとそちらを窺えば、目と目が合ってしまった。ひとつ微笑んで、口付けられる。そのまま両手で腰を鷲掴みにされ、鋭い快感が全身を駆け抜けた。一息に陰茎を受け入れさせられる、悲鳴が男の口腔へ消える。力が入ったせいで軽く傷付けてしまったのだろうか、ふと血のにおいがした。顔を背けて神経質そうに唇を何度も舐めてから、徐庶が顔をしかめる。郭嘉は強すぎる刺激に潤んだ視界でそれを見つめた、無理強いしたのだからこんなことは自業自得だ。引き千切れるまで噛みつかれなかっただけましと思って欲しいくらいだった。未だ反抗的なそうした内心を見抜いてしまったのか、徐庶は目に見えて不機嫌になる。再び身体を持ち上げられる。亀頭の段差だけが入り口へひっかかって、後はずるりと抜き去ってしまう。
「かわいそうだから君もいかせてあげよう。君がちゃんと俺で感じてくれたら、約束を守るよ」
 言うや否やひとつ大きく腰を使って、再び一息に中を穿つ。先端がごりごりと腹の内側の弱いところを突かれて、目の裏に火花が散った。
「ああぁっ、そ、そこっ、だ、め……っ、あ、っあ!」
 背を逸らそうとする身体を無理やり押さえつけられ、何度もそこを抉られる。虐げられる意識が勝手に昇りつめ、腰がびくびくと跳ねた。体勢のせいで常より深くまで侵されるだけでも苦しいのに、徐庶のやり方には遠慮も気遣いも何もない。気を遣る度に下腹に溜まる重たい熱が、身体中の神経を焼き尽くした。全身にびりびりと痺れが走って、まともに言葉が発せなくなる。続けてこんなことをされては苦しい、止めてくれと制止の言葉をかけたくとも、ほとんどが意味のない嬌声に成り代わった。
「や、あぁっ、だ、め、う、うぅーっ……!」
 両手を突っ張って逃げようとする身体を抱き込まれる。決して逃げられないようにと強く抱きしめられながら、弱いところばかり擦られては堪らなかった。仰け反る頤に伝った唾液を徐庶が舐め取る。喉の緩やかな隆起に犬歯を突き立てられてしまうと、いよいよ身体が悦んでしまう。
「あ、ああっ、も、いく、いくっ!」
 こんな男に命を握られているのだ、今は自分だけではなく、あの曹操ですらも。達するしかないのだ、頭の奥にばちりと強い光が瞬く。吐き出される、絶望を持ってそう思った瞬間、徐庶はぴたりとその動きを止めた。
「郭嘉、俺の名前を呼んでくれ」
 絶頂を取り上げられ、郭嘉は呆然と男を見つめた。ふうふうと獣のような吐息がうるさい、それが自分のものだと自覚して羞恥に俯く。約束のことがあるとはいえ、なんと浅ましい、吐き出すことばかりを考えていたのだ。今にも淫らに腰が揺れてしまいそうで、唇を噛んで耐える。
「俺にねだるんだ、はしたなく」
 改めてそう言われて、郭嘉は顔を歪めた。
「汚い……」
 これを言えばこれまで積み上げてきたすべてが無駄になるのかもしれない、それは分かっていた。それでもどうしても言わずにはいられなかった。卑劣な嘘やむごい暴力などこんな世の中では当然のように蔓延する悪だ、郭嘉は軍師としてそれを重々分かっていた、それでも割り切れなかった。性根から悪に染まり切れず、良心がそっと胸を刺すのだ。仕方がないと片付けて、どれだけ争いを生み人を死に追いやるのか。そんな呵責に吐き気を催しながらそれでも平和のためだと言い聞かせて立ち続ける、この世における正義とはそうであるべきではないのか。この男は楽しんでいるのだ、人の運命を蹂躙することを遊びのように思っているに違いない。そんなものはただの悪だ、曹操のような男に討たれるべきだ。
「汚い! あなたは、今も……以前も、ひどいことをして。恥ずかしいと思わないんだね。こんな卑劣なことを、ん、っあ!」
 言葉後が嬌声へと消える。ぐっと腰を押し進められて、すぐさま身体が快感に浸かってしまう。徐庶はそれを嘲笑うかのように腰を突き上げた。君もねと言って、うっそりと笑う。
「恥ずかしくないのかい。そんなに俺を恨んで睨むくせに、しっかり尻にこんなものを咥え込んで」
 心臓が跳ね上がる。淫らだと揶揄されるのを恐れるようにきゅうと締まる後孔はしかし徐庶の陰茎をきつく締め付けて愛撫する。
「本当は分かっているんだろう」
 そうするしかないんだ、確信を持って囁かれる言葉に、郭嘉はぎりと音のする程にきつく唇を噛んだ。薄い粘膜を破ってまた血が溢れてしまう、それでも強く噛み締めた。徐庶の言う通りだった。やはりそうするしかないのだ、郭嘉はもう知っていた。これまでと変わらない、仕方がないと片付けるしかない。
「く……い、かせて」
 約束を守らせるためなのだから仕方がない。屈しても仕方がない、恥辱にまみれても仕方がない。望まぬ情交に感じても仕方がないし、こんな男相手に縋っても仕方がない。自分の意に沿わぬことでも仕方がない。曹操のためならば仕方がない。それが一番の手段ならば、仕方がないのだ。
「徐庶殿、いかせて!」
 叫ぶように言えば、徐庶は笑みを浮かべた。彼も限界が近かったのか数回身体を揺すったかと思うと、熱い吐息に情けない喘ぎを交じらせる。腰に縋るように抱き付いて、かくかくと小刻みに腰を振る。
「ああぁっ! あーっ! う、うそ、いや」
「ああ……だめだっ、出すよ! 郭嘉、出るっ!」
 一度達しかけた身体は簡単に昂ぶった。無茶苦茶な責めからも素直に快感を拾い上げ、いっそう高まる熱が管を上っていく。それが吐き出されると同時に腹の奥へ叩きつけられる白濁にぶるぶると震えながら、郭嘉はぼんやりと自身の身体を見下ろした。いつもと変わらぬ衣に身を包んだそれがひどく汚れて見えた。仕方がないとすべてを諦観してしまって、一体何が残ったというのだろう。これでもしも、約束が果たされなかったら。曹操を失ったら。
「う、うあぁ、あ……」
 思うと嗚咽が漏れるのを止められない。確信を得ないまま、あまりにもか細い糸に縋ってしまった。今にも断ち切られそうなそんなもの、普段の自分ならば頼りになどしなかった。それ程までに徐庶に侵されていたのだ。この男を都合よく使おうとしたことから、既に間違いだったのかもしれない。後悔してももう遅い。仕方がないのだ。起きてしまったことは仕方がない。選び取ってしまったのだから仕方がない。だから何も残らなくても、仕方がないのだろう。

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2013.09.30