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こどくの主_3


 3
 深夜、自身へ宛がわれた襄陽城の居室で郭嘉は卓へ伏し鬱々と思いを巡らせていた。しばし徐庶の元で政を担いたいと話をしたときの曹操の心配は、曹氏への忠誠が揺らぎはしないかなどといったことでは当然なく、郭嘉の身の安全ひとつだった。そのときはまったく心配いらないと笑い飛ばしていたのである。
 しかし襄陽に来て数カ月経ち、郭嘉は日々嫌な視線を注がれていることに気が付いてしまった。初めはそれも君主自ら足繁く出向いて引き抜いてきたという余所者への猜疑心に違いないと思っていた。だからこそ内政、軍事、とにかく結果さえ出せば襄陽の将兵にも認めてもらえるだろうと思い尽力してきた。江陵、長沙を攻め取り、荊州を得るまであと一歩と迫っている。厳しい行軍ではあったが、民には負担をかけないよう気遣っていたし、第一に土を肥やすよう指示した農地はこれから豊かになっていくはずだ。目に見える結果が出るのはまだ先になるが、的確に仕事を与えられ、民の表情も生き生きとしたものに変わってくれたと思う。郭嘉は大きな溜息を吐き出した。そうした成果があるというのに、気分が重たかった。
 一体あの視線は何であるのか考え暮らす内に、同じ眸をずっと見ていたことを思い出した、徐庶のあの妙に熱っぽい目だ。考え得る最悪の想像だし、自意識過剰ではないのかと笑いたくもなるが、たぶん、あれはそういうことなのだろう。身の危険を感じるようならいっそ逃げて来いと冗談なのか本気なのか分かりにくい口調で曹操は言っていたが、どうするべきか。
 そもそも徐庶配下の将兵らとは気がまったく合わない、と郭嘉は感じていた。江陵の民が徐庶の軍を賊と称していたのも分かる気がする、指示を伝える必要はあるから何度か話をしたのだが、それでも慣れないような者ばかりであった。元は本当に賊だったのであろう気質の荒すぎる者、他者を不幸にするため怪しいまじないを使っていたらしい者、規律を守らず略奪を繰り返していた者、血に飢えていたずらに民を斬った者など、挙げだしたらきりがない。君主の徐庶は多少性格に難はあれど知性は並み以上にある。それなのにどうしてあんな者ばかり集めてしまったのか、無理に付きまとわれ仕官を断り切れなかったと考えるのが一番それらしいのかもしれないが、とにかく彼に問い質してやりたかった。一応話は通じるから問題ないといえばないのだが、同僚があんな者ばかりだと思うと気も滅入ってしまう。
 そうして思い悩んでいるところにふいに声をかけられ、郭嘉は肩をびくりと揺らした。顔を上げれば、やはりというべきか徐庶である。
「徐庶殿、いったいどうしたのかな、こんな夜更けに」
「いや、あの……少し話がしたくて。駄目かな」
 その頬が紅潮しているのは燭台の炎のせいだけであろうか、はにかんで言う徐庶に、郭嘉は曖昧に頷いてみせた。一応今はこの男に仕えているのだし、無下に断るのも良くないだろう。向かいの椅子を示して座らせ、こちらも居住まいを正す。徐庶は何度か躊躇しながらも興奮気味に口を開いた。
「郭嘉殿、君は俺に、生きる希望を与えてくれる! 俺を選んでくれてありがとう」
 そう言われることがまったく嬉しくないわけではないのだが、熱の篭りすぎた言葉には苦笑しか返せない。同時に強烈なめまいを覚え、こめかみを擦る。勝手にこうして一人で盛り上がることがよくあるし、陰鬱な男だとばかり思っていた徐庶は意外に情熱的なところがあるらしい。そして忘れっぽいのだろうかわざとだろうか、何度も言っているはずだが、いずれ郭嘉が戻るということを分かっていない節がある。水を差すようで気まずいが、ここはしっかり釘を刺しておくべきだ。郭嘉はおずおずと口を開いた。
「あの、徐庶殿……もう一度、念のために言っておくけれど。私はもうしばらくしたら、曹操殿の元へ帰るのだからね」
 徐庶は驚いたのか何度かまばたきをした、こんなことを改めて言われるとは思っていなかったのかもしれない。軽く顎ひげを擦り、そのままがりと爪を噛む。考えるときの彼の癖なのだろうか、単に甘えたがりなのかもしれないが。卑屈そうに背を丸めたままの彼を睥睨しながら、ぼんやりとそんなことを思う。
「勿論、それは分かってるよ。でも言わせて欲しいんだ、君には本当に感謝してるって……君がいると、こんな俺でも強くなれるから」
「うん。自信を持ってくれたのならよかった。私がいなくなって、もしまた国が乱れるようなことがあったら……覚悟してほしい、かな」
 せっかくここまで国を立て直したというのに、監視の目がなくなったからといって元に戻られては困る、それは本音だ。だがそういうことまでわざわざ口にする気になったのは、恥ずかしそうに上目に見つめてくるその視線の熱さにやはり背筋がぞわと震えてしまったからだった。それをごまかしたくてわざといたずらっぽく笑みを浮かべてみせたのだがそれもよくなかったらしい、徐庶はほうとますます熱っぽい溜息を吐き出した。
「ああ、郭嘉殿……なんて綺麗なんだ」
「はは、そうかな。ありがとう……」
 うっとりと蕩けたような声と眸に、郭嘉は嘆息する。恐らくそうなのだろうが、そうでないことを祈っていた。うぬぼれているような気がして嫌だったが、これはもう間違いないのだろう。
 すうと伸ばされた手のひらが頬へと添えられる。他人に触れられるのには慣れていたはずだが、肌をちくちくと刺すような嫌悪感を覚えてしまう。生温い温度に粟立つ肌を隠そうと、郭嘉は衣服の袖を気にした。
「君のすべてが眩しいよ、俺には本当に、もったいないくらいだ」
 この男はきっと自分を好いているのだ、その確信が郭嘉の胸に強く迫った。単なる恋慕ならいくつも与えられてきた、しかしそれをこれ程恐ろしく感じるのはきっと、徐庶のそれが今までの男女とは質の違うものであるからだ。
「ほ、ほら……また、そんなに卑屈にならなくても」
「聡明で、輝いている。ああ、どんな困難の中でも君さえいてくれればいいんだ。俺は、誰にだって勝てる」
 見つめてくる眸から逃れられなくなる。笑おうとして喉がひきつった。恋のようにかわいらしくも愛のように微笑ましくもない、こんなものを徐庶はまさか恋しい気持ちだと勘違いしているのだろうか。鼻先が触れ、囁かれる言葉が恐ろしい。どうか俺と。その目にあるのは独占欲だ。知略も心も身体も何もかも手に入れてやるという強い欲望が炎のように燃えている。まさか、そうまでして自分が欲しいというのだろうか。郭嘉はぞっとした。これではただの執着ではないか。
 男の呼気に唇をじっとりと濡らされ、慌ててその肩を押し返す。体格差のせいで突き飛ばすことはできなかったが、何とか接吻は避けられた。はっ、はっ、と荒く浅い吐息の音が嫌に耳に響いたのは、自分の鼓動がこれ以上なく早まっていたせいだった。叫び出したくなるのを必死で抑え、努めて優しく冷静に声を出す。
「あ、あの。あのね、徐庶殿。勘違いをさせてしまったら、もしそうならば申し訳ないと思うから、すこしきついかもしれないけれど、はっきり言うよ」
 情けなく震えた声にならず済んだのは幸いだった。徐庶はまだ目を瞬かせている。拒絶されないとでもおもっていたのだろうか、ひどく驚いた様子であった。それを追い討つのも気が引けるが、今はそういうことに構っていられない。郭嘉は至極当然のことをただ口にした。きっと分かっているはずだし、今更改めて理解を求めずとも大丈夫であるはずだ。
「徐庶殿。あの……私は、あなたのものには、ならないのだからね……?」
 しばらくの間があった。ぱちぱちと忙しく瞬いていた目がふと動きを止めると、それきりであった。表情をなくした男が、ぼうっとこちらを見下ろしている。眸の黒がぽっかりと空いた穴のようで、恐ろしくなる程に空虚であった。見つめ返していると吸い込まれてしまい、帰ってこられなくなりそうな気がする。ぞくと背筋を冷たいものが走って、郭嘉はもう一度強い口調で男の名を口にした。徐庶は硬直から解かれたようにはっとして、慌てて顔を逸らした。
「うわ、わっ、ご、ごめん! 郭嘉殿、分かってるんだ、で、でも……君があんまり綺麗だから、つい」
「そう言ってもらえるのは、本当にうれしいのだけれど。徐庶殿、あなたとそういう、関係にはなれない、かな」
 まだ言うのかと呆れていつものように笑ってしまいそうになったが、それをぐっと抑え込んだ。そうやってはぐらかしたり隙を見せたりするような真似はよくないと思ったのだ。
 この男、何を考えているのか計り知れないが、もしかすると自分を返す気がないのかもしれない。すまないと言ってへらへら苦笑している徐庶を、郭嘉は密かに睨み上げた。そもそも、相手の考えていることがよく分からない時点で郭嘉にとっては不愉快なのである。一応納得し目的を持って仕官することを決めたとはいえ、しつこく訪ねてくるその勢いに負けたようなところもあったのだ。これ以上、徐庶の思惑通りにことを進めさせるわけにはいかない。
 次はどう言い寄ってくるのかと身構えたが、徐庶は大人しく踵を返した。迫ったのを恥じ入るように頬を赤らめて、よければまた話をさせてほしいとしおらしいことを言う。逢瀬のようなつもりはないと言い、先の非礼を謝罪されてしまった手前、たったそれだけの誘いを断るのも相手を意識しすぎているような感じがする。郭嘉は曖昧にだが頷いた。それに徐庶はぱっと表情を明るくし、すぐさままた調子付いてしまったのを恥じるように俯いた。
「あの、本当にごめん……郭嘉殿、君に感謝しているのは本当なんだ。どうか、俺に手を貸していて欲しい」
 まだ襄陽の地でやるべきことはある。言われずとも治世に尽力するつもりだ。ただあと数カ月の後、約束の通りならば張遼が迎えに来てくれるのだろうが、そのときにははっきりと徐庶に別れを告げてやらなければならない。仕官することになったときのように流されたり折れたりしてはならないのだ。そのときを思い、郭嘉は重苦しい溜息を吐き出した。

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2013.09.30