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こどくの主_4

 約束の日が来てしまう、徐庶は苛立ち自室をぐるぐると意味もなく歩き回った。劉表をついに下し劉璋も成都へ追い詰めた、そんな今朝の軍議で郭嘉はいつも通り聡明な口ぶりで今後の行軍についていくつか話をした後、最後に将らに向けて今までありがとうと何とも儀礼的なあいさつをした。それからは徐庶が与えた部屋へ篭りきりになって、恐らく荷をまとめていたのだろう。その後誰かに会った様子はない、特別親しくしていた将もいなかったようだから当然ではある。ようやく夜更けを迎えた彼はきっと期待に胸を躍らせて眠りについたのだろう。いつも穏やかな郭嘉のその内心がいつになく浮足立っているであろうことを思うと、徐庶は元からまとまりのない髪をいっそうぐちゃぐちゃに掻き毟りたくなるのだった。
 郭嘉が曹操の下へ帰るというのだから、自分はこれで天から突き放されるのだ。だからこそしつこい程にずっとこの国にいて欲しいと迫ったし、無理やりな手段にも出ようとしたが果たして、彼はなびいてはくれなかった。元々強引に奪って来たようなものだったし、最初から印象は悪かったのだろう。軍師など自分のように皆性悪なのだ、郭嘉もきっと笑顔の奥では自分を嘲笑っていたに違いない。今後どのようにして国を導けばいいのかあの淑やかな顔で論じたりしながら、心底では必死で縋る徐庶を馬鹿にしていたに違いないのだ。特に、あなたのものにはならないのだからとおずおずとしかし当然のように言いきったあの顔と言ったら、憎たらしい程に美しかった。
 自分は曹操の物であるという自信が彼を輝かせているのだ。そしてそうだと分かっているからこそ徐庶は無性に腹が立つのである。期待以上に仕事をこなしてくれたとはいえ、襄陽城で見る郭嘉は許昌で見たそれとは違い、いくらかくすんで輝きを失ってしまっていたようだった。つまりこのままでは郭嘉にとって良くないということくらいは分かっている。
 だが、徐庶にも矜持があった。この乱世に起ったからには自分こそが覇を唱えてやるのだという野望があった。自分は勝ち続けなければならない。荊州を得、更に領地を広げようとしているし、以前に比べて国内の情勢も安定してきた。それは郭嘉という存在があってこそだ。ここで躓いてしまうわけにはいかない。
 約束通り、張遼はとうに下ヒを出てこちらに向かっているはずだ。もう残された時間はない、この夜のうちに何とかしなければならないのだ。徐庶は走り出したくなる気持ちを抑え込み、静かに部屋を出た。下手に音を立てて彼を起こしてしまっては台無しである。かねてから考えていた策ではあるが、なけなしの理性や男としての自尊心が邪魔をして行動に起こせなかった。だがこうなってはそんなものは関係ない、何としてでも、ようやく手にしたこの天啓を失うわけにはいかない。
 罵倒されることなど怖くないのである。何と馬鹿にされ罵られようとも、最後に勝ちさえすればそんなものは醜い負け惜しみではないか。配下のまじない師を呼び寄せて郭嘉の居室に忍び込んだときには何か吹っ切れてしまったような、そんな清々しい気持ちでいっぱいだった。
 丁寧にまとめられた荷の奥、郭嘉が牀へ横たわっている。耳を澄ませば伝わるゆっくりとした寝息は彼が深い眠りの中にあることを物語っていた。準備をとまじない師へ伝え何やら呟くようにして低い詠唱の音が紡がれるのを聞きながら、徐庶は心臓が早鐘を打つのを止められなかった。なんと卑劣なやり方だろう。いよいよ真の悪に染まるのだという確信が、この胸の奥にそっと仄暗い炎を灯すのだった。きっと天下を治める男に必要なのは、武勇でも知略でも仁愛でも規律でも財産でもない、いざというとき道を踏み外し悪逆にでも走る覚悟である。こくりと喉を鳴らし飲み込んだ唾が、驚く程の熱を持って食道を滑り落ちて行った。
 まじないの声が止むと、男は恭しく一礼し、気をつけねば長くはもちませぬぞと含みのある笑みを浮かべながら部屋を後にしてしまった。
 そうして徐庶は一人、郭嘉の元へ取り残された。そっとその顔を窺うと、彼は穏やかに眠っている。冷たい月明かりの照らすその肌は青白く、生きた人間の気配が感じられない。人ならざる色がこの男に添えられると、溜息が出る程に美しかった。それでも柔らかな曲線を描く頬は微かに血の色を滲ませているのだから、徐庶が本来の目的を忘れてそこを切り開きたくなっても仕方はなかった。このままじっと見つめていても飽きることはないが、国の興亡に関わることなのだし、まじない師にも急ぐよう言われた以上、もう行動を起こすしかない。
 眠る彼の上へと跨り、改めてその顔を覗き込む。怪しい呪をかけられたなどとは露知らず、明日ここを出られる安堵からか気持ちよさそうに眠っている。その吐息を吸い込むように大きく息を吸えば、胸の中に柔らかな毒が広がるようだった。ついにこの手を汚してしまう。そんなことはもはやどうでもよかった。この美しい郭嘉を手に入れられるのだ。昂ぶる気持ちにめまいがする。何度か深い呼吸を繰り返して、徐庶はゆっくりと口を開いた。
「郭嘉」
 呼ぶ声に、その眸が静かに開かれる。ちょうど今空に浮かぶ満月のようなそれがぱちぱちと瞬いて、やがてこの顔へ焦点を結んだ。視線が蕩ける。ほう、と甘い吐息が鼻先をくすぐる。郭嘉が言った。
「どうかされました、こんな夜更けに……」
 正気でないとは一目で分かった。指を絡めて彼の手を優しく握れば、白い肌に朱が差す。そのまま右手で頬を撫でてやると、甘えるように擦り寄った。
「私に、何か御用ですか」
「ああ。き、君に……会いたくなって」
 どこまで許されるのだろうと内心はらはらしながら、徐庶はそう口にした。指先で唇をなぞれば、応じるように舌がちろとくすぐってくる。分かっていても驚いてしまう、震えながら少し指を引くと、郭嘉はくすくすと楽しそうに笑った。
 ああと溜息が漏れた。あのまじない師は本当にやってしまった、命じたのは自分だった。見下ろす身体は拒絶することもない。大人しく手を握られ組み敷かれ、金の眸は熱を持ってこちらを見上げてくるのだ。
 堪らず、徐庶は郭嘉へ口付けた。食むようにして柔らかな粘膜の感触を味わえば、唇がそっと開かれる。慣れたしぐさだった。こうした手順を教え込まれているに違いない。舌を捻じ込んで、口付けを深いものにする。両手で頬を掴もうとすると、嫌がるようにふいと顔を背けられてしまった。一瞬どきりとするが、郭嘉はうっとりとした表情でこちらを見つめている。
「っん、ふふ。いきなり、どうされたのです」
 まともな精神状態の彼がまさか自分に向けてそんな顔をするはずがない。だがこれも軍師という卑劣な生きものだ、もしかするとこちらを騙そうとしているのかもしれない。おずおずとその名を呼んだ声にしかし、郭嘉は何ら悪意のない満面の笑みを浮かべながら小さく首を傾げてみせた。
「はい、曹操殿」
 徐庶は思わず赤面してしまった。閨に似合わぬ朗らかな笑顔があまりにもかわいらしかったのだ。ここまで上手くいくとは思ってもみなかった。この純粋な愛慕を悪用しようとしているのかと思うと流石に胸が痛んだが、今更退くこともできない。
 郭嘉は徐庶のことを、曹操だと強く思い込んでいた。つまり今の郭嘉はどんな命令でも聞いてくれるのだ。迎えに来るであろう張遼に、郭嘉の口からはっきりと戻る必要はないと言わせてやる、そうすれば諦めてくれるのではないか。そう思ったのだ。あの誠実そうな武人ならば帰りたがらないのを無理やり引っ張っていくこともないだろう。郭嘉が心からそう思って言うのだから何も間違いがない。主を違えたまま、記憶をおかしくしたままでも仕えてくれればいいのだ。長くはもたないとまじない師が言っていたからそれは難しいのかもしれない、正気に戻った後に卑怯者だ何だと罵られようと、郭嘉がこの国にいてくれさえすればそれでよかった。そのことが自分を天から選ばれた存在たらしめるのだと、徐庶は信じて疑わなかった。
 頬を染めたまま俯いていると、郭嘉は再び曹操殿と声をかけてきた。下からじっと覗き込まれ、どうかしたのですかと問われる。徐庶はしばし視線をさまよわせ、仕方なく口を開いた。
「ええと、その……何で、嫌がったんだ」
 何のことだか分からなかったらしい、きょとんとした表情でいる彼に接吻だとだけ言えば、合点が行ったように大きく頷いた。浮かべたのはいたずらっぽい笑みだ。そうしてたまにはこういうのもいいでしょうなどとうそぶくのだから、彼と曹操の関係というのも余程爛れたものに違いなかった。
「満足できませんか」
「それは君の方じゃないのかい」
 頷く代わりに艶っぽく笑んで両手を伸ばしてくる。求められるまま身を寄せれば、彼は両腕を背へ回して縋り付いてきた。鼻先で甘く囁かれた名前が自分のものとは異なっていたのは仕方がない。突き出された舌に自身のそれを絡めると、はふと満足そうに熱い吐息が漏れた。本当に嫌悪のため顔を逸らしたわけではないらしい。内心安堵しながら、そのまま顔を寄せて口付ける。唇をすっかり覆い肌を舐ってやると、郭嘉はくすぐったそうに身を捩った。
「ん、んんっ、ふ、ぅ」
 もどかしげに開かれた唇を舌で割ってやれば、鼻から抜ける声が明らかに甘くなる。じゅるじゅると音を立てて唾液を啜り、絡めた舌ごと呼吸すらも奪おうとする。快楽に肌を染めながらも眉をひそめ、息苦しさに悶える郭嘉もまた美しい。長い脚がもがくように動く度、その身にまとった絹がしゅると艶かしい音を立てる。衣服越しながら彼の指に力がこもったのを感じて、徐庶は仕方なしに身を離した。
「は、あふ……本当に、どうなさったのですか」
「たまには、こういうのもいいかなと思ってね」
 先に言ったのと同じように言葉を返してやれば、郭嘉は恥じ入るように身を縮めかっと頬を赤らめた。それをそっと撫でてやりそのまま顎、首筋から衣服の合わせへ降りていく曹操の手のひらを、彼が止められるはずがない。夜着をはだけて露わになる白皙もまた仄かに色付いている。決して嫌がられないのをいいことに好きなように撫で擦り、ちらと郭嘉の顔を窺えばじっと手のひらへ視線を注いでいた。見られているのに気が付いて、ごまかすように笑顔を浮かべる。
「どうしたんだい」
「いいえ。何でも……」
 耳まで赤くして俯くのがかわいらしい。先を欲しがるはしたない顔を見られたのが恥ずかしかったのだろう。徐庶はとても他人には見せられぬ質の悪い笑みが自分の唇に浮くのを自覚したが、こんな姿を見せられてはそれを抑え込めるはずもなかった。
「郭嘉、どうして欲しい」
 問えばゆっくりと顔を上げる。熱に潤んだそのさまよう眸を見ればこんな意地の悪いことをするまでもなく彼の考えなど分かるが、こういう遊びはきっと曹操だって好きなはずである。口をもごもごと動かして、郭嘉はまだためらっているようだった。促すように名を呼んでやると、おずおずとこちらを見上げる。上目に覗く金色が、滲んだ涙で怪しく光ったような錯覚がした。唾を飲み込んだ喉がごくりと下品に音を立てなかったか心配になった。内心で慌てるが、構わず郭嘉はその手を伸ばしてくる。透けるように白く柔らかな指先がそっと唇をなぞっていった。
「触れてください、曹操殿」
 徐庶は密かに奥歯を噛み締めた。羨望が炎のように湧き上がって腹の底を焼いていく。こんな顔をするのだ、あの男の前では。郭嘉があなたのものにはならないなどと言った気持ちが分かったような気がした、曹操と本当にこのような関係であるならば、そういうことを言いたくなっても仕方がない。だからこそ、同時に途方もない優越感があった。それ程までに主を慕う郭嘉の気持ちを踏みにじっているのだ、徐庶が考え得る限りもっとも惨いやり方であった。
 何にしても、郭嘉の願いならば仕方がないだろう。徐庶は努めて優しく笑み浮かべた。求めるものが与えられると安堵したのか綻ぶ顔は愛らしいが滑稽だ。胸へと顔を寄せ、固くしこった乳首にぎりと歯を立てた。
「っあ、んぅ」
 痛いかと問うても確かな声でいいえと言う。そう弱く噛んだつもりはなかったが、これでただ感じるだけだとはこれまで一体どのように抱かれてきたのだろうか。また妙な思念に囚われそうになって、徐庶は軽く頭を振った。本来の目的のついでとはいえ、せっかくの機会なのだから今は楽しむ方が良い。
 芯を持ったそこを押し潰すように舌で舐り、乳輪を食むように愛撫する。普段は余裕をもった笑みばかり浮かべているあの郭嘉の息が明らかに乱れ始めると、ぐと股座が膨れ上がるような気がした。戦に出る身としてある程度の鍛錬はしているとはいえ、当然ながら、郭嘉の腹は武を生業とする将たちのようには割れておらずひどく薄い。脂肪も筋肉もまともについていないこの奥にしかし臓物がしっかりと収められているのだから、妙な不安に駆られてしまう。綻びた刃ですらこの肉を切り取ってしまうかもしれない。援軍を受け、しばし共に過ごして分かったことだが郭嘉はこれで好戦的な一面がある。だがこの身体では戦に出すのも危うい、かわいそうだが、どこかに閉じ込めてその頭だけを借りた方が良いだろう。同盟の件を片付けたらそうしようと、徐庶は密かに決意をした。触れているとなおのことその柔らかさに驚いてしまう。その身にまとう絹と同じ、するするとした心地良さだ。
 円を描くように下腹を撫で擦り、時折指をひっかけるようにして臍を軽く穿ってやる。漏れる喘ぎを楽しみながら胸へと頬を寄せてみると、心臓の音がうるさかった。興奮している。曹操に弄られる彼はもちろん、自身の胸もはち切れそうであった。
 股座へ手を差し入れると、郭嘉の身体がびくりと跳ねる。まるで触れてもいないというのに陰茎は既に勃ち上がって固くなり、先走りを漏らしたのか濡れた感触があった。それを確かめるように亀頭を撫で、指先を見れば透明な糸が引いている。見せつけるように眼前へかざしてやれば、郭嘉がそっと息を呑んだ。
「なんて卑しいんだ、郭嘉」
 小さな声がすみませんと言うのは聞こえていたが、徐庶は構わず指先を押し付け、先走りを彼の頬で軽く拭った。涼しい顔をしているくせに、ずいぶんと我慢の効かない男だ。しかも胸を噛まれて感じるような淫乱なのだから、虐げられても構わない質なのであろう。どうして欲しいと先よりもきつい口調で問うて、徐庶は寝台の上で郭嘉から距離を取る。
 突き放された郭嘉はどこか戸惑った様子だったから、曹操はこういうやり方をしてこなかったのかもしれない。だがしばらくすると決心をしたのか、ゆっくりと動き出した。身体を反転させて四つん這いになり、衣をはだける。下帯を解いて肌を剥き出しにする。困惑していることこそ窺えたが、躊躇はなかった。そしてそれだけでは終わらず、両手で尻を割り開き、後孔までも露わにする。
「曹操殿……どうぞ、私をお使いください」
 長い長い溜息が出た。無防備な姿を晒したままの郭嘉が怯えたようにびくついたのは流石に申し訳なく思ったが、それでも止められなかった。徐庶は曹操の仮面を被っていることをしばし忘れた。まじないのせいだとはいえ何とも感慨深かったのだ、郭嘉が自分に何かをねだるだけでもありえないことなのに、あろうことか男根を欲しがっているのである。
 誘われるままに窄まりへ触れて、指先に残った先走りで濡らしてやる。皺をひとつひとつなぞるように解していくと、そう時間をかけずに後孔が小さく口を開けた。どうせ慣れているのだろう、先の郭嘉の言葉から徐庶はその確信を得ていた。ああいうやり方はしないのかもしれないが、曹操がここを女のように使っていたことだけは確かである。舌打ちしたい気持ちを何とか抑えた。下穿きを乱し取り出した性器は改めて扱くまでもなく勃起しきっている。尻へと宛がえば、欲しがるようにそこがひくついた。誰のせいかなど考えるまでもない、本当にどうしようもない身体である。
 こういうことなら加減してやるまでもないと判断し、ぐと腰を突き出した。一息に奥まで貫かれ、郭嘉の背がしなる。曹操が散々に愛でた身体だけあって、男根を受け入れることに慣れているどころかその悦ばせ方まで知り尽くしている。熱い粘膜がぴたりと吸い付くように性器を締め付け、奥へと誘うように蠢く。予想以上の快感に襲われすぐさま吐精しそうになるが、歯を食い縛り何とか耐えた。いくら良い身体とはいえ、いきなり達するのは情けないにも程がある。ただ惜しいことに長くはもたないのは確かだった。なるべく早く彼も追い込んでしまおうと腰を揺すると、徐庶の葛藤を知るはずもない郭嘉は思うまま声をあげ、気持ちよさそうに腰をくねらせている。
「気持ちいいかい、郭嘉」
「は、はいっ。い、いつもよりっ……すごくかたくて、っあん、あの、興奮、されていますか」
 徐庶は思わず苦笑を漏らした。十余年も歳上の男と比較され負けてしまったら流石に自信をなくしてしまう。嫌かと問うと、恥ずかしそうに首を横へ振る。
「う、うれしい、です。曹操殿が、私でこんなに感じてくださってぇ……」
 甘えた声音が愛らしい。本当に自分が相手をしていたら何もかもこうはいかないのだろう。考えるまでもなく明らかで、快感を逃がそうと吐き出した吐息に苦いものが混じってしまった。徐庶には何をされても嫌だし、曹操にならば何をされても良いのだ。ならば構うものか。無遠慮に中を抉っていると、亀頭がふくらとしたしこりを擦り上げた。
「あぁっ! あ、はぁ、ん、んっ」
 そこが弱いに違いない、締め付けを強くした内壁に確信を得る。跳ねる背を押さえつけるように郭嘉の身体へ圧し掛かり、細い腰を鷲掴みにする。震える吐息が頬へ触れたのは、彼が微かに振り返ったからだ。まさかあのまじないを破ることができるはずもない。その蕩けた眸を認めてにたと笑みが浮く。
「はあぁ、いい、いいですっ、あーっ、そこ、あっ、あぁ、あー……」
 過ぎた快感にだらだらと零れ落ちていく嬌声が鼓膜を揺らせば脳髄までも揺さぶられるような錯覚があった。これ程甘い声を垂れ流すその顔を見てやりたい、一体どれ程淫らな色をしているのか純粋に興味が湧いた。中へ男根を収めたまま華奢な身体を反転させれば、郭嘉の喉がひゅと音を立てる。
「っは……あ、曹操どの、らんぼう、なんですから」
 口端から垂れ落ちた唾液もそのままに、郭嘉がそっと微笑んだ。元の肌が白いせいなのか火照った頬はぼたんの花のように真っ赤に色付き、金の目は今にも零れ落ちてしまいそうな程に潤んでいる。熱っぽい眸が注ぐ視線で、ずくりと下腹が疼く。やはりこの身体はいけない、その胎も顔も声も何もかもが無意識の内に男に媚びるよう出来ているのだ。そこまで仕込んだのは曹操その人なのかはたまた名もない匹夫なのか、もし元から備わる郭嘉自身の素質なのだとしたら空恐ろしいものがある。今の笑顔もそうだ、乱暴だと詰ってみたくせに、その笑みには深い慈しみがあった。
 自分にも何かしらのまじないをかけてもらえばよかったと、徐庶はようやく僅かに後悔をした。自分を曹操だと思い込むような暗示がいい、そうすればこの柔らかな笑みを何も考えずに享受できたのではないか。ひどいやり方で郭嘉を騙している。笑顔を見ているとつらくなるのは未だ悪逆の心に染まり切れていない証ではないか。濡れた唇を奪い笑顔を隠す。なんと甘いのだろう、思って、襲い来る酩酊感に徐庶はしばし身を任せた。非道に堕ちることを固く決意しておいて今更自責の念に潰されてみせる、彼の奥底へ埋めた性器で快楽を得ながらかわいそうだと憐れんでみせる、何よりそんなふうにして葛藤をする演技に酔うのが堪らなく心地良かったのだ。嬉しそうに接吻を受け入れる郭嘉を馬鹿だと笑ってやりたくさえなって、慌てて曹操の姿に戻るのだった。
「あっ、だめ、いくっ。い、いきます、曹操どのっ、も、でちゃうぅ」
 切羽詰まった声にねだられ、徐庶は深く笑みを浮かべた。こんなにも楽しくて気持ちの良いことを今すぐやめろとはずいぶん酷な話である。まだ終わらせるものか。腹に付きそうな程勃起した郭嘉の性器の根元をぐと握る、あがる嬌声はほとんど悲鳴であった。
「ふあっ、あは、はっ、曹操どのぉ、おねが、あ、あぁん、っだめ、いかせて、あぁだめぇっ」
 余程苦しいのか、きつく抱き付きながら半狂乱になって首を振るさまがおかしくて、そうであるからこそかわいらしいのだ。徐庶は自分の性癖がほんの少し歪んでしまったことは重々承知していた、優秀すぎる人材に囲まれて学んできたのだ、色々の抑圧で多少は荒れても仕方がないではないか。とはいえそれを彼に無断でぶつけるのは心が痛んでしまう、そう思うのがやはり堪らなかった。
 吐精の予感にぶると身体が震える。郭嘉のせいで絶頂に導かれるのだ、思うと愚かな身体も急に愛おしく見えてくる。美しいくせにこうも淫らなのだ、それは徐庶の最も好むところであった。
「郭嘉……ああ、なんてかわいいんだ!」
 性器の根元をしっかりと締め付けたまま腰を使って弱いところを責めてやると、郭嘉の身体が大きく震えた。全身を強張らせたまま歯を食い縛りふうふうと何度も息を吐いて、必死で縋り付いてくる。
「おっ、おかしくなります、う、うぅっ、うーっ……!」
 抱き締める腕よりも強く陰茎を締め付けられ、徐庶もまた大きく喘いだ。郭嘉は吐精を許されないままで気をやってしまったのだ、曹操のまぼろしに踊らされ、きっと大嫌いであろう男の腕の中で。途方もない快感に襲われた両手が知らず郭嘉を抱き寄せた。骨を軋ませんばかりにきつく抱いて逃れられなくしたところへ、思い切り白濁を叩きつける。腹に濡れた感触が広がったのは、彼もまた射精したからなのだろう。
 情交の後、どちらのものとも分からぬ荒い呼吸だけが響く時間は虚脱感に襲われるはずなのに、今は妙な興奮が身体中を包んだままであった。郭嘉の後孔は未だ陰茎を咥えたままだが、蕩けそうに熱かったそれも吐息と共に次第に落ち着いてきたのが分かる。互いの鼓動と呼吸がゆっくりと元へ戻って行くのを待つ、それすら心地良い。このような普通の感覚が自分にあったはずがないのだ。これはもしかすると、本当に。徐庶は恐ろしくも幸福な感覚に震えた。天に選ばれた証として、郭嘉が欲しかっただけのはずである。ふと視線が交わってしまった。優しくこちらを見つめる金の眸を見つめ返していられなくなり、慌てて目を逸らす。
「その、郭嘉。お、俺は……もしかして、君を」
「私を。どうしたのですか」
 続く言葉を予測してか、幸せそうな甘い吐息の中で曹操殿と口にした郭嘉はしかし、動きを止めた。絶頂に乱れていた息は落ち着きかけていたというのに、再びそれが狂い出す。頭を抱えて俯き、浅い呼吸ばかりを繰り返す。細い身体ががたがたと震え出した。背を撫でてやれば落ち着くだろうか、抱き寄せようとして、躊躇する。嫌な予感が氷のように喉を滑り落ちて、臓物が一気に冷えていった。
「どうして。わ、わたし」
 一瞬にして顔から血の気が引いていく。真っ青な顔がこちらを見上げ、この顔を捉える。眸が見開かれる。
「徐庶殿、自分が、いったい何をしたか、分かっているの」
 怒鳴られたわけではない、しかしあまりにも厳しい詰問であった。答えられるはずがない。郭嘉はまじないを破ってしまったのだ。徐庶は頭を掻き毟った。自分を愛して抱かれたくせになんとひどい言い方だろうか、そう思うのは無茶苦茶だ、それは分かっている。だがそう簡単に整理のつくものでもなかった、つけたくなどなかった。
 震える手を叱咤するようにきつく拳を握り、もがきだす身体を押さえこむ。今郭嘉を抱いているのは自分だ、徐元直という男だ。曹操などではないし、郭嘉が見たまぼろしなどこちらの知ったことではない。このはしたない尻が今もしっかりと咥え込む男根は自分のものだ、郭嘉がどれ程嫌がっていようと徐庶が身体を重ねていることだけは事実だ。
「い、いやだっ。離して、徐庶殿、あなたになんか、あっ、あぁっ!」
 寝台へと縋るようにして、郭嘉はじりじりと逃げていく。せっかく挿入してやった陰茎が抜け落ちそうになって、徐庶は舌を打った。彼が力で敵うはずもない、腰を鷲掴みその身体を無理やりに引き寄せる。入り口から奥まで亀頭にずるりと擦り上げられ、郭嘉は思い切り背を仰け反らせて身悶えた。
「はぁっ、あっ、あぁ、いやっ、やめて」
 しなる身体を押さえ付け、制止の声にも構わず中を穿つ。陰嚢が尻へぶつかり乾いた音がすると、いかにも情交をしている感覚がして良かった。激しく腰を打ち付けるせいで精液が泡立ち、淫猥な水音を立てる。嬌声混じりの吐息が荒いのは先のように快楽のせいではないのだろう。屈辱と怒りに震えているのだ、分かっていたが止められない。悪の道に堕ちる覚悟をしたのなら、これくらいのことは顔色ひとつ変えずにできなければ。思うのに、やめてと繰り返される声に顔が歪むのを感じた、腰を進めて奥を貫く。嫌がる身体はしかし快感に忠実だ、一際強く性器を締め付けられ、目の前にばちばちと光が飛び散る。
「徐庶殿……! こんなっ、卑怯なことを、あぐっ、う、うぅ……」
 犬のようにだらしなく舌を突き出しながら腰を揺すり、吐精を続ける。どくどくと脈打ちながら溢れる白濁に奥底まで犯され、彼は喘ぎ泣いた。精液を注がれて悦ぶ身体が絶頂する。置き去りにされた意識が静かに消えていこうとする。瞼が閉じる、その直前、最後の力を振り絞るようにして郭嘉が振り返った。
「あなただけは……ぜったいに、許さない」
 まるで呪詛のようだ、郭嘉にかけたものより余程強く恐ろしい、静かな憤怒に打ち震えた言葉であった。徐庶は情けない悲鳴をあげそうになって、慌てて両手で口元を覆った。
 途切れそうな意識の中で確かに呪を吐き出した、あの眼に宿ったのは確かに憎悪ではないのか。何と鋭い刃だろう。普段は穏やかな笑みばかり浮かべているくせに、あんなものを隠し持っているのではないか。怒りも憎しみも何も知らないような淑やかな顔をして、あれ程おぞましい負の念を湛えている。それを引き出したのは、自分だ。滾る熱に頭がぐらつき、正体を失ってしまいそうになる。
 元々そのつもりではあったが、最悪の形で曹操を敵に回したのだ。そして最低の形で郭嘉を裏切り傷付けた。今後曹操は、圧倒的な敵意でもって自分を殺そうとするだろう。殺すだけでは生温い、郭嘉に乱暴を働いたのだから、その報復は想像を絶するに違いない。それでも、どうあっても郭嘉を手放すわけにはいかないのだから、仕方ないではないか。狙われるというのならば挑むしかない。口を噤んで大人しくしているだけの自分などとうに捨てたのだ。郭嘉を縛り付けてでもこの国に戴いて、曹操を破るしかもう道は残されていない。


 玉座へどっしりと腰かけて威厳あるふうを装いながら、沈痛な面持ちをしてみせる。約束の日約束の時、遠くは下ヒよりこの襄陽に、張遼は颯爽と馬を駆り現れた。泣く子も黙るなどと恐れられるこの男は郭嘉のように特別頭が切れるわけでないが、武力に頼るばかりの愚者でもない。噂を知っていたのか、普段はすこぶる口の悪い文官も慇懃に張遼を連れてきた。そう萎縮せずともいっそこの場で適当に賤しめてくれればいいのだ、怒った張遼があの文官を斬り殺すなり何なりしてくれれば郭嘉のことをうやむやにして同盟破棄を突きつけられる。当然、どちらにしてもそんな馬鹿をするはずもないのだが。
 恭しく拱手をした張遼が言った。
「張文遠、郭嘉殿をお迎えに参りました」
「張遼殿、下ヒより遥々申し訳ない……すまない、とても言いにくいんだが、君の任務、果たせそうにないみたいだ」
 困ったように眉根を寄せて、溜息混じりにそう口にする。張遼はその鋭い目をいっそう吊り上げ、どういうことであろうと早口に問うた。
「郭嘉が帰らないと言い張っているんだ。何にしても、自分で直接伝えるべきだと言ったんだが、その……君たちに会いたくないって」
「そのはずはあるまい。御存知だろう、私は郭嘉殿と確かに約束しているのです」
 二人が約束を交わしていたところは徐庶も見ていたのだからもちろん知っている。当然そのことを持ち出すと分かっていた。男の言う通り、頑なで忠誠心の厚い郭嘉が曹操への思いを断ち切るはずもない。傍に郭嘉がいれば、なんてくだらないうそをと言って頬を打たれたかもしれなかった。だが郭嘉はまだ目を覚ましていない。あの後気を失ってそれきりだ。
 徐庶は玉座から立ち上がった。訝しげにこちらを睨む視線を感じながらゆっくりと歩を進め、張遼の元へ歩み寄る。こういうことは上から一方的に言うのではなく、寄り添い話を聞く姿勢を見せてやった方がいい。どうせ、この場に嘘を正す者はない。それをこの男が信じるかは実際のところどうでもいいのだ、とにかく今は郭嘉を手放さずにこの話を済ませることが第一、ついでに疑念の種を植え付けられれば上出来といったところである。たった一度で曹操が、というよりは郭嘉の方が、完全に諦めてくれるとは徐庶も思っていないのだ。
「君は、郭嘉の心変わりを許せないのかい」
 そうして男の顔を覗き込めば、帽子の下に隠されていた眉が跳ね上がるのが窺えた。そのようなことは、と言葉後を濁す声が震えている。
「しかし、徐庶殿。そうなれば、我々は同盟を破棄されたとみなしますぞ」
「それは勿論分かってるんだ。だから、俺も必死で郭嘉を説得したんだよ! 曹操とぶつかるなんて、なんて恐ろしい……」
 己の身体を抱き締め徐庶は俯いた。
 徐庶の国と違い、曹操のところは人材が豊富である。全兵力を西と南両面に分けて展開し、孫策を南海まで追い詰めて馬騰ら涼州勢を配下にしたと聞いている。それぞれ目指す先はあるのだろうが、ここで徐庶が同盟を破れば状況は一転、その矛先はこちらへと向く。
 南の軍は孫策を打ち破るまでは動けないはずだ。そして孫策も国の興亡が懸っては簡単には倒れまい、曹操が荊州を向けばその隙を突く。屈強な西涼の騎馬隊を手にした西の将兵らは士気も高いだろう。しかし益州北部にはまだ張魯が残っている、あの覇軍に長く抵抗できるとは思えないが。
 孫策と張魯を比べれば、漢中と成都、どちらの地でとなるかまでは分からないが、まずぶつかるのは西の軍であろう。
 確実に、徐庶には猶予があった。この同盟を破棄しようと、すぐさま攻撃を受け滅ぼされることはないという確固たる自信があった。何より、ここまで領地を広げつつ富国強兵に努めてきた、曹操軍をまとめて一度に相手にする力まではなくとも、西と南を個々に相手をするのであれば善戦する可能性は大いにあるに違いないのだ。
 徐庶は恐怖に身体を震わせながら、何ら恐れてなどいなかった。それでもそういう演技をしたのは、大軍などではなく、張遼をこの場でまず打ち倒してやる必要があったからだ。
「そうであるならば約束通り、郭嘉殿を渡されよ」
 会いたくないと言うならば引っ張って来ればよい、張遼は顔を苦しくしかめつつ言った。この言などはほとんど信じていないだろうがそれが真実だとして、本来ならば無理強いなどしたくないのだろう、強い信頼があるからこそだ。本当に郭嘉が徐庶を選んだならば、その決意に水を差したくないと思っている。
「そうしたいとは思うんだが。でもどうしてもと言うなら、俺は、郭嘉の意思を尊重してあげたいんだ。この国を危機に晒しても。く、君主がこんなことを言うものではないかな……はは、申し訳ない……」
 張遼がぎりと唇を噛んだ。話の真偽に懊悩し、郭嘉への親愛と主君への忠義で板挟みであろう、一体どういう決断をするか。何にしても、泣く子も黙る張遼はその実なんと思いやりに溢れた優しい男だ、思って徐庶は内心でにやりとした。
「あの、張遼殿、君が郭嘉を信頼しているのは知ってる、郭嘉だって絶対にそうだ。そうじゃなかったらあの日、俺のところへ来てくれなかったと思うよ。だけど、それなら……だからこそ」
 ややあって、男は諾と頷いた。つまりこの男は、主君ではなく、一軍師でしかない郭嘉を取ったのである。
「張遼殿、ありがとう。きっと郭嘉も色々考えたんだろうね。でも、君の決断を喜ぶはずだよ……」
 言いながら、徐庶は身体の震えを抑えられなかった。張遼には、曹操と敵対することになる恐怖だと思われただろうからよかった。実際には、郭嘉という人間の魅力を畏れて戦いていたのである。それはもはや特別美しいからとか聡いからとか、そういうものをすっかり越えてしまっていた。魔性だ、あれは人を誑かす悪鬼だ。一目見たときから自分も魅入られ惑わされた、張遼もきっとそうなのだ、そして曹操もまた。あの穏やかな笑顔で会う者すべてを虜にしてしまって、無自覚なまま、顔色一つ変えずに過ちの道へと叩き落す。傾国だ。徐庶はぶるりと大きくひとつ震えた。気を遣ってしまったような錯覚すらあった。君と次に会うのは戦場だろうかと、言った声が妙に蕩けてしまったのをこの男に気付かれていないといいが。
 張遼は拱手をしながら、挑むようにして言った。
「無論。そのときは……御覚悟なされよ」


 乱暴されたせいで痛むらしい身体を引き摺って郭嘉が現れたのは、陽も傾きかけた夕刻であった。玉座へなおざりに腰かけ書を捲っていた徐庶はその姿を見、憐憫の情を露わにしてみせた。
 張遼を追い返したなどとは知りもしない郭嘉は嫌悪に満ちた眼で徐庶を睨み付け、本当なら口を利きたくもないのにと吐き捨てた。
「ね、迎えは? どこで待っているのかな」
「郭嘉……ええと、あの」
 言い淀むと、早くしてほしいなと氷のような言葉が返ってくる。ぞくぞくと背が震えた、その冷たさが快感であったし、これから郭嘉がどういう顔をするのかと甘い想像をしてしまったからだ。怒るか悲しむか、どちらにしても堪らないことは確かである。
「張遼殿はもう、帰って、しまったんだ」
 昂ぶる気持ちを抑えようとして大きく息を吸って、吐いて、徐庶は言う。声は上手く震えてくれた。
「君は……もう、必要ないって」
 そんなはずはないと強く叫んだ郭嘉であったが、その柳眉は悲しげに寄せられている。乱暴をした徐庶の言葉など信じられないのだろう、だが、もしかしたらとも微かに思っている。季節が巡る、たったの一年だ。その短い間に郭嘉は徐庶の国を屈強なものに変えた。その長い間に郭嘉は曹操から信頼を失った。もう戻ってこないのではないか、そうして疑う日々を重ね、ついに郭嘉は捨てられてしまった。曹操、張遼から見放されてしまった。もう戻らずとも良いと言われてしまったのだ。
「なんてひどい男だ。曹操殿、張遼殿もだ! 約束だったのに君を見捨てるだなんて。いらないだなんて!」
 徐庶は涙ながらにそう叫んだ。その叫びは確かに鼓膜を揺らしているはずだ。疑いはあっても、あまりに直接的な言葉は刃のように彼の胸へと突き刺さる。郭嘉は呆然として、膝からその場へ崩れ落ちた。
「う、うそだよ」
「嘘を吐くなんて、唾棄すべき最低の行為じゃないか! ああ、郭嘉……かわいそうに。俺は張遼を止められなかったんだ、君を裏切ったあの男を、そのまま見送った……」
 この上なく惜しいことに、郭嘉は俯いてしまった。徐庶の言葉を信じ切りすっかり絶望してしまったのか、床に這いつくばってしまった。きっとそうして泣いていたのだ。徐庶は慌てて彼の元へ駆け寄った。その顔が見たかった。肩を掴み無理に頭を上げさせれば、郭嘉がその整った顔をくしゃりと歪める。徐庶は心臓が脈打つのを感じていた。涙の跡や目の潤みこそまだないが、悲しみに暮れる顔は堪らなく美しかった。
「私はどうすれば……」
「曹操のところへは、もう戻れないよ」
 力なく首を振って、郭嘉が項垂れる。どうすれば。繰り返し、思索している。曹操の下へ戻れなくなったら、もう郭嘉に行き場はなかった。この男に分からぬはずがない、直と天下は曹操と徐庶に二分されてしまう。徐庶を疎んでも曹操には見捨てられている、もう誰の下へも行けはしないのだ。
「郭嘉……その、昨日のことは、悪かったよ。俺もどうかしていたんだ」
 だから手を差し伸べられるのは自分しかいない。いつもよりいっそう細く見えるその背中を優しく擦ってやりながら、徐庶は言った。
「でもそれくらい俺は……俺は、きっ、君を愛しているんだ! だ、だから郭嘉、もし、よければ」
 ここに残って欲しいとは、続けられなかった。ふいに顔を上げた郭嘉の唇が、徐庶のそれを塞いでしまったからだ。驚き見開いた目に、ようやく潤み始めた金の眸が大きく映り込む。接吻されている、郭嘉の方からだ。その事実にどうしようもなく身体が昂ぶった。
 どれ程そうしていたのか唇を離した彼は、おそるおそるこちらを見上げてくる。
「徐庶殿、私を見捨てないで」
 かわいそうな程に震えてしまうその声で、郭嘉は必死に繰り返した。
「おねがいです。あなたまで、私を裏切らないで……」
 そこまでの悲しみだったのだろうか。素直に頼ってくる郭嘉など、愛らしくはあるが艶がない。それでも徐庶は途方もない興奮を覚えた。縋ってくるのだ、あなたのものにはならないと言った郭嘉が今度は見捨てないでと泣いている。曹操への忠誠を揺らがせることはないはずの気高い男を今、地へ這いつくばらせたのだ。君主として曹操と比べてしまえば何も持たない、このどうしようもない男が、郭嘉のような天に恵まれた美貌と知性を持つ人間を。これが征服欲が満たされるとかいうことなのだろう、徐庶はそれをぐっと噛み締めた。もっと甘い快感なのだとばかり思っていた、その実腹の底から湧き上がるどす黒い炎のようだった。脳髄を焼き尽くし、下腹へと落ちる、堪らない感覚だった。
「おねがい。信じさせてくれないかな」
 ほとんどぶつかるようにして胸へと抱き付いて、精いっぱいの力でもって華奢な腕を背へと回してくる。これを抱き締め返しても構わないのだ、まじないもなしに。あの恐ろしい目で睨まれることはもうない。
 正直なところ、郭嘉を相手にここまで上手くいくとは思わなかった。しかし、ついに、この男を手に入れられる。徐庶は荒れる息を呑み、わなわなと震える両手できつく郭嘉を掻き抱いた。もう何も考えられなかった。静かに抱擁を受け入れた彼はうれしい、ありがとうと囁いて、懐くように頬を摺り寄せてくる。ああと呻いて、徐庶はその細い身体を更に腕に抱き込んだ。目を閉じる。この熱が欲しかったのだ。無理やりに身体を重ねた昨夜よりもずっと熱く彼の存在が感じられた。
「私には、あなたしかいないんだ」
 涙ながらに訴えるこの美しい男を、二度と離して堪るものか。ただそう決意する。何が起きても曹操の下に帰してなどやらない。今吐いた嘘など些細なものだ、これ以上、どんな手を使ってでもこの腕の中に閉じ込めてやる。密かなその決意を知りもしないのであろう郭嘉は、ふと柔らかな笑みをその唇へ刷いた。この眼をしかと見つめ、金の眸を緩やかに光らせ、だから、とゆっくりと口にする。
「私のことも、信じてね……」

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2013.09.30